風のケアル4 朝遠き闇 著者 三浦真奈美/イラスト きがわ琳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)弔事《ちょうじ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)議席|剥奪《はくだつ》要求 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_000a.jpg)入る] [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_000b.jpg)入る] [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_000c.jpg)入る]    目次  第一四章 領主の息子たち  第一五章 伝説の鳥、飛び立つ  第十六章 ゴランの息子たち  第十七章 天涯を照らす光   あとがき [#改丁]    第一四章 領主の息子たち      1  おとなの身の丈ほどある竿《さお》の先につけられた長い白い旗が、山から吹きおりてくる冷たい風にはためいている。  白い流し旗は、その家に弔事《ちょうじ》のあったしるしだ。ライス領の公館にこの旗が掲《かか》げられるのは、十五年前、ケアル・ライスの母親が亡くなったとき以来である。  ただしあのとき喪に服した者は、彼女の幼い息子と領主ロト・ライスだけだった。それ以外の者たちは、彼女の死を悲しむどころか喜んだのだ。公館に島人の女を囲うなど、ライス領の恥だと言われ、彼女の死はおおかたの者たちを安堵《あんど》させたものだった。  あのときと違って、白い流し旗を掲げた公館は、沈痛な空気に包まれている。それも当然だろう。公館の広間には、領主の長男セシル・ライスの遺体が安置されているのだ。次期領主として幼いころから育てられたセシルの死に、家令たちだけでなく領民たちもまた大きな衝撃をうけた。  そのうえ、とケアルは窓辺を離れて、三人の医師がつききりの寝台を振り返った。寝台には依然予断を許さぬ容態の父、ロト・ライスが横たわっている。  ロト・ライスが腹部にナイフを突き刺されての傷を負ってから、今日で三日目の朝を迎える。誰が領主を刺したのか、ロト・ライスの意識が戻らぬ今はまだ、その犯人はわかっていない。だが家令たちもケアルも、決して口に出そうとはしないが、いまはもう亡い人物に対して共通の疑いを抱いていた。 「兄上、どうして……?」  ひとり口の中でつぶやいたケアルは、ふと顔をあげた。廊下のほうから、騒々しい足音が聞こえてくる。  閉め切った扉が大きく開き、姿をあらわしたのは下の兄、ミリオ・ライスだった。 「父上の意識はまだ戻らんのか?」  ここが病室だということなど忘れているのか、ミリオは声をはりあげて医師たちに問いかけると、肩をそびやかせて寝台に近づいた。ミリオのあとには家令が五人ほど、おもねるように腰を屈《かが》め、室内をきょろきょろと見回しながら付き従っている。 「——はい。まだ……」  あわてて医師のひとりが立ちあがり、領主の次男坊に頭をさげた。もう二晩、眠ることもできず領主の手当てに全力を尽してきた医師は、疲労の色も濃い顔を伏せる。 「医師とかいって、日頃は偉そうな態度してるくせに、いざというとき役に立たないものなんだな」 「申し訳ありません」  謝罪の言葉を口にする医師に、次兄はふんっと鼻を鳴らしてみせた。 「実際のところ、どうなんだ? 父上の意識は戻りそうなのか? それとも——」 「兄上っ!」  ケアルはあわてて次兄の言葉を遮《さえぎ》った。悪いほうの可能性を口にすれば、それが悪い結果を招き寄せそうな気がしたのだ。  だが次兄はケアルを完全に無視して、言葉を続けた。 「このまま父上の意識が戻る可能性が低いなら、はっきりとそう言ってもらおう。兄上の葬儀もやらねばならんからな。いつまでも、いつ回復するかわからん父上を待ってはいられないんだ」  医師はもうふたりの医師を振り返り、顔を見合わせてうなずきあった。そして眉間《みけん》に深い皺を刻み、 「おそらくは……五分五分かと。それに……たとえ意識が戻られても、はたして回復されるかどうかは、私どもにも——」 「わからん、というわけか?」  はい、と医師がふたたび顔を伏せると、ミリオは唇を歪《ゆが》めて息を吐き出し、従ってきた家令たちを振り返った。 「——ということだ。父上の裁可を待ってはいられん。さっさと兄上の葬儀の準備をはじめろ。各領の領主へは、この俺の名前で知らせるんだ」  親指で己が胸をさすミリオに、家令たちが一斉に頭をさげた。 「兄上……!」  ケアルはふたたび次兄に呼びかける。 「各領のご領主をお呼びしての葬儀は、いましばらく——」  避けたほうがいいのではないか、と進言した末弟を、ミリオは今になってやっとケアルがそこにいるのに気づいたような顔をして見やった。 「ああ、そうだ。おまえは、葬儀には顔を出すんじゃないぞ。おまえのような者が、我がライス家の葬儀に出席していては、ライス領の恥だからな」  次兄はそう言い放つと、くるりと踵《きびす》をかえした。部屋を出るミリオのあとを、家令たちがいそいそと追いかけていく。 「待ってください、兄上!」  ケアルも兄を追って廊下に出た。だが家令たちに囲まれた次兄は、足を止めるどころか振り返ろうとさえしてくれない。けれどケアルはあきらめず、訴えかけた。 「いま葬儀をとりおこなえば、父上のことが他領に知られてしまいます! どうか兄上、考え直してください!」  領主の長男、次期領主とされていたセシル・ライスの葬儀となれば、各領の領主たちも自ら足を運ぶしかないだろう。つまり、この公館に各領の領主たちがやって来る。そんなかれらを、ライス領主たる父が迎えなければ当然、なにかあったと思われる。隠し通すことなど、まず無理だろう。  跡継ぎが死に、領主も死に瀕《ひん》しているのだと知って、海千山千の各領主たちがなにもせず見守ってくれるはずはない。隣のマティン領がいい例だ。親切面をして、あれこれと口を出してくることはまず間違いない。おそらくまずは、まだ年若く経験もない新領主の後見をするとの口実で、領内の政治に介入してくることだろう。将来の領主として育てられたわけでもないミリオ・ライスが、かれらと対等にやりあうことなどまず無理だ。  そんな状況の中、真っ先に割りをくうのはこのライス領の領民たちである。 「ああなってしまっては、どうしようもありませんな」  ふいに横から声がした。振り返ると、白髪の家令が廊下の隅にたたずみ、去って行くミリオ・ライスの後ろ姿をながめている。 「ミリオさまは、領主となったご自分の姿しか見えておりませんから」  悲しげな口調でそう言う老人は、ロト・ライスの父親の時代から領主につかえてきた家令だった。以前は外交を担当する家令だったそうだが、現在は表舞台をしりぞいて、もっぱら若い家令たちを教育する役目を負っている。それでも各領主たちが公館を訪れた際などは、気難しいので有名なギリ領主の接待を任されるほど、ロト・ライスからの信頼はあつい。 「ミリオさまにしてみれば、初めて飛び込んできた表舞台に立てる機会ですよ。この先ずっと、部屋住みの次男坊で終わるはずだった人生に、初めて光明が見えた気がしているのでしょうな」  老家令はそう言うと、白い眉の下の目をケアルに向けた。 「領主さまが倒れ、セシルさまが亡くなって、家令たちも次はミリオさまが領主となられるのだと、あの通り、ミリオさまに気に入られようと懸命になっている者も多い。ミリオさまもそんな家令たちに囲まれ、すっかりその気になってしまわれた」  ふうっと肩で息をついて、老家令は疲れた様子で目を床におとした。 「私の進言など、耳に入れてくださらぬ。せめて、ケアルさまの声なら聞き届けてくださるかとも思いましたが——」 「あなたが無理だったなら、おれなんか全然望みありませんよ」  ケアルはゆっくりと首をふる。  次兄は昔から、腹違いの弟であるケアルを嫌っていた。存在それ自体が気にさわるのだろう、同じ兄弟でもおまえと自分とは違うのだと、幼い頃からことさら次兄は言い立てた。そんなミリオがいまさら、ケアルの言葉にわざわざ耳を傾けるはずもない。 「いえ。ロト・ライスさまは、ケアルさまの資質を買っておられます」  老家令の言葉に、ケアルは苦笑するしかなかった。実際のところ父は末息子をどう思っているのか、ケアルにはわからない。だが少なくともこれまで、ケアルをこんなふうに認める発言をする家令はいなかったのだ。  ただしこの老人が、家令たちの中でも少数派であろうことは容易に推測できる。多くの家令たちは老家令の言うように、新たな領主となるだろうミリオに気に入られようと、次兄の態度に同調している。とはいえケアルは、そんなかれらを咎《とが》める気にはなれなかった。かれらが保身をはかるのは、ごくあたりまえのことだ。かえってこんなふうに評価されては、なにか裏があるのではと疑ってしまいたくなる。 (いや……それはちょっと穿《うが》ちすぎだな)  ふたたび苦笑して、ケアルは老家令に「ありがとうございます」と軽く頭をさげ、踵をかえした。  次兄の姿はすでにない。しかし、だからといって放ってはおけなかった。おそらく執務室へ行ったのだろうと見当をつけ、ケアルは次兄のあとを追いかけた。  病室から執務室への通り道にある公館の表玄関となる吹き抜けの広いホールには、セシル・ライスの死を知った領民たちが詰めかけていた。各領からの正式な弔問客を迎える前に、領主の後継ぎ息子だったセシルをひっそりと送ろうとする人々である。島の代表としてやって来たのだろう島人の姿も、幾人か見受けられた。  けれどかれらはまだ、領主が大怪我をして意識も戻らず臥《ふ》せっていることを知らない。領民たちに知られてしまえば、たちまち他領にその情報が伝わることだろう。 「ご領主さまは、さぞ気落ちなさっとるでしょう」 「そりゃあ、セシルさまは立派な後継ぎでしたからな」  小声で交わされる会話に、申し訳ない気持ちでその場を通りぬけようとしたケアルは、そのとき公館に走り込んできた男の声に足を止めた。 「こちらに、お医師さまがいるとうかがって来たんですが……っ!」  弔問の領民たちの相手をしていた家令がふたり、思わずといった様子で互いに顔を見合わせた。 「すみません。お医師さまは——」  男は領民たちの間をかきわけ、家令を見つけると、その腕にしがみついた。髪は乱れ、息が荒い。必死になって駆けてきたのだと一目でわかる。だがしがみつかれた家令は、 「お医師さまなど、ここにはおらぬ」  そう言い放ち、男を振り払った。集まった領民たちは静まりかえり、互いに目配せしあいながら、男を眺めている。 「そんな……確かに、公館にうかがっていると、この耳で——」 「たわけたことを言うな! おらぬと言ったらおらぬのだ!」  しかし、と男は必死になって首をふる。 「お願いです。私の妻が……妻が……!」 「放せっ!」  ふたたびしがみついてきた男を振り払い、家令は同僚に目顔で合図した。男は家令ふたりに両側からつかまれ、ずるずると外に連れ出されていく。 「待ってください!」  思わずケアルは、呼びとめた。男を連行する家令たちが、呼びとめたのがケアルだと見てとり、渋い顔をしながらも立ちどまる。集まった領民たちもまた、つられるようにケアルを振り返ると、自然と道をあけた。  家令が、ここに医師はいないとつっぱねる理由は、ケアルもわかっている。ひとつは、医師が公館にいると領民たちに知られることで、領主の怪我が公になっては困るから。そしてもうひとつは、夜を徹してロト・ライスに付ききりの医師三人がひとりでも欠け、そのために容態が悪くなってしまうようなことがあれば、ライス領全体に関わる大事となってしまうからだ。  ケアルが男に声をかけるのをためらい、こうして連れ出されようとするまで黙って見ていたのも、そのふたつの理由からだった。 「ケアルさま、ここは我々が——」  家令たちは眉を寄せ、近づくケアルを目顔でたしなめた。だが両脇を抱えられた男は、近づく相手が領主の三男坊だと知り、これが最後の綱とばかりに懸命になってケアルに訴えかけた。 「妻が、ひどい出血で——お願いします、お医師さまを。お医師さまに、来ていただきたいんです! 来ていただかなければ、妻は……私の妻は……!」  男の目から、どっと涙がこぼれ落ちる。 「奥方は、怪我を?」 「いえ。いえ、たぶん、流産を……」  ケアルは男の顔を見返し、唇を噛んだ。莫迦《ばか》なことをしてしまったのではないか、との思いがふつふつとわいてくる。父についている三人の医師たちのひとりでも、この男の妻のもとへ差し向けてやることは難しい。難しいとわかっているのに、声をかけてしまった。なまじ期待をもたせてしまった。 「誰か、産婆の経験のある女性を。この中に心当たりのあるひとは、いませんか?」  ケアルが周囲に向かって訊ねると、男は目にみえてがっくり肩をおとし、家令たちは、それみたことかと渋い顔をした。 「わたくしが参りますわ」  静まり返った広間に、人垣のむこうから張りのある声が響いた。ケアルを含めて、この場にいる全員が一斉に振り向く。  ドレスの裾《すそ》をまくりあげて進み出たのは、マリナ・ダイクンだった。 「マリナ……」 「デルマリナで何度か、お産を手伝ったことがあります。それに、長くお父さまが薬草を扱っておりましたから、多少の知識はありますわ」  彼女が、と人々はケアルの前に進み出るマリナを注目した。デルマリナから来た女性の噂は、島々にも届いている。だが、マリナと実際に会った人間はまだ少ない。  好奇の視線を向けられ、ひそひそと囁《ささや》き交わす声の中、マリナはしっかりと頭をあげ、男の顔をのぞきこんだ。 「わたくしのような小娘では、こころもとないかもしれませんが——でもきっと、わたくしが奥さまを診ている間に、ケアルがお医者さまを連れてきてくれますわ」  そうでしょう? とマリナに視線を向けられて、ケアルはうなずいた。 「ええ、必ず。絶対に、連れていきます」  藁にもすがりたい心境なのだろう。男はマリナとケアルに向かって何度も、お願いしますと頭をさげた。  マリナと男が急ぎ足で公館を出ていくのを見送って、ケアルはすぐさま病室にとって返す。室内は相変わらず緊迫した空気が流れ、三人の医師たちは寝台のそばの椅子に座り、交替に立ちあがっては患者の具合を確かめていた。  ケアルはかれらの中で比較的に若く、まだ気力体力に余裕がありそうな医師のそばに寄り、ちょっといいですかと話しかけた。 「父の容態は、どうでしょうか?」 「できる限りの手は尽しました。あとはもう、ご領主本人の体力と回復力に賭けるしかないでしょう」  今朝がた聞いたと同じ答えだったが、ケアルはふたたび丁寧《ていねい》に頭をさげた。 「そうですか、ありがとうございます」  その先ほどの次兄とは違う態度に、医師の疲れた顔にかすかな笑みが浮かんだ。 「きっと、回復なさいますよ。ご領主の気力も体力も、たいしたものです。それに、このかたは我々の希望ですから」  希望? と少し首を傾げたケアルに、医師は自分を指さした。 「私の父は、長く公館の伝令を務めていました。息子の私も、伝令になるはずだったんですが、医学に興味をもちましてね。医師になりたいと言う私に反対する父を説得してくださったのが、ご領主なのです」 「ああ、聞いたことがあります。領内にはどれだけ医師がいても、多過ぎることはない、と言ったのだと」  そうです、と若い医師はうなずいた。 「当時マティン領におられた優秀な医師を師匠とするよう勧めてくださり、先生に紹介状まで書いてくださったのです。おかげで私は、すばらしい先生に出会うことができました。そのうえご領主は、帰ってきたばかりのまだ新米の私に、ご自分の身体を診るようおっしゃられたのです」  誇《ほこ》らしげな医師にケアルは、ひょっとしたらこの医師ならばと考え、思いきって話を切り出した。  ケアルの話を聞いた医師は、しばらく渋い顔で考え込んでいる様子だったが、やがて立ちあがると、仲間の医師のもとへ行き、なにごとか話しかけた。 「——なにを考えているんだ」 「しかし……」 「どこのだれともわからん領民と、ご領主さまのどちらが大切か、それぐらいわかるだろう」 「ご領主ならばきっと、行きなさいとおっしゃることと思います」  言い切った若い医師の意志的な横顔に、ケアルは胸が熱くなる思いがした。 (父上……。そうだ、父上ならきっと、そうおっしゃるに違いない……)  しばらくのやりとりの後、若い医師の熱意に押されたのか、ふたりの医師がうなずき、行けと手をふったのが見えた。 「さあ、行きましょう」  診察鞄を手にもどってきた若い医師に、ケアルは深く頭をさげる。 「ありがとうございます、ほんとうに」  ケアルは若い医師とともに、いまだ意識のもどらぬ領主の部屋を出た。  ケアルと医師がその家に駆けつけたとき、マリナは裸の赤ん坊の両足をつかみ、しがみついてくる父親を怒鳴りつけていた。 「邪魔よ、おどきなさいっ!」  髪をふり乱しながら赤ん坊を逆さ吊りにするマリナを、父親がなにをするんだと止めている。 「どうしました?」  医師がすぐさま上着をとり、袖をめくりあげて赤ん坊に近づいた。 「この女がっ! おれの子をっ!」  唾を飛ばしてまくしたてる父親を睨みつけて、マリナは冷静な表情で、 「産声《うぶごえ》をあげないんです」  わかった、と医師はすぐさまうなずく。 「足の裏をたたくんだ」 「ええ。さっきから、やってますわ」  赤ん坊の小さな足の裏を、マリナはぱんぱんと音をたてて叩いた。 「産声をあげるまで、続けて」  医師はそう指示すると、横たわる母親のもとに駆け寄った。母親になにか話しかけ、何度もうなずいて、彼女の腹部を両手で押しはじめる。  残された父親は、おろおろと逆さ吊りにされた我が子を見つめている。もうマリナを止めようとはしない。  破裂するような勢いで赤ん坊が産声をあげたのは、それから間もなくのことだった。マリナはほっとした顔つきで赤ん坊を抱えなおし、父親を振り返った。 「もう大丈夫よ。産湯に入れてあげましょうね」  父親はまるで震えているように、何度もうなずいた。  拳をにぎりしめ、全身で泣く赤ん坊を、マリナは用意してあった湯につけて、優しい手つきで洗ってやる。 「こっちも大丈夫だ。後産《あとざん》も終わった」  医師が血まみれの手のまま、赤ん坊の様子を見に近づく。 「ああ、これなら大丈夫だな」  うなずいた医師は、マリナに向かって微笑みかけた。 「きみのおかげだ。きみの判断がなければ、この子は危なかったかもしれない」 「そんなことはありませんわ」  マリナはかぶりをふり、湯からあげた赤ん坊を柔らかな布にくるんだ。 「以前、たまたまお手伝いしたお産で、やっぱり赤ちゃんが産声をあげなかったんです。そのとき、産婆さんがやったことを思い出して——」 「そうか。でも、いい判断だ」  医師が手を洗う間に、マリナは母親のもとに赤ん坊を連れていく。 「かわいい元気な男の子ですわ」  母親がそろそろと手をのばし、我が子の小さな手に触れた。 「お乳を呑ませてあげましょうね」  うなずいた母親の横に赤ん坊を寝かせ、マリナは胸をはだける彼女を手伝ってやる。そして父親のほうを振り返り、 「こちらにいらっしゃって、お子さんをごらんになってくださいな」  マリナに手招きされた父親が、そろそろと寝台に近づき、母親の乳首を口に含む我が子を見おろした。こわばりついていた彼の表情が、紐《ひも》の結び目がほどけるように柔らかなものへと変わる。 「かわいい子だわ。鼻と耳の形は、お父さまにそっくりね」  そうマリナが言うと、父親はまた何度もうなずいて、そして——涙をこぼした。 「ありがとう。ありがとうございます」  父親はマリナの手を握りしめ、涙しながら繰り返し繰り返し頭をさげた。医師が「おめでとう」と微笑んで父親の肩をたたくと、彼は今度は医師にも頭をさげた。 「いや、私は何も役には立たなかったよ。すべては彼女のおかげだ」  そんなことありませんわ、とマリナがかすかに頬を染める。 「お医者さまがいらっしゃるまで、わたくしがなんとかしなければと必死だっただけですわ。見よう見まねで、もし失敗したらどうしようかと、少し怖かったですけど」 「いやいや、堂々としたものだったよ。特に彼を怒鳴りつけている姿は、驚くよりも感心してしまったね」  医師の言葉に父親が、申し訳なさげに頭をかいた。 「すみません……。いきなり赤ん坊の足をつかんで、吊り下げたもので、おれも動転してしまって……」 「私も以前、同じことをして母親に悲鳴をあげられてしまったことがありますよ」  そう言って笑う医師に父親は、ますます肩をすぼめて小さくなった。  礼をしたいと引き留められたのを謹んで辞退し、ケアルとマリナは肩をならべて家路についた。マリナはまだ興奮がさめないのか、頬を紅潮させ、目を輝かせて何度も「かわいい赤ちゃんだったわね」「お母さまも幸せそうだったわ」と繰り返した。 「それにしても、きみにあんな特技があるとは驚いたよ。デルマリナで何度かお産を手伝ったことがある、と言ってたけど——」  ケアルが言うと、マリナは軽く肩をすくめてみせた。 「ほんの二回ばかりよ。うちにいた家令が急に産気づいたときに、お医者さまが間に合わなくて、女性たちでお産を手伝ったの。わたくしはまだ十歳だったわ。だから、見てただけだったのよ」  それを一回にかぞえるなんて、ほとんど詐欺《さぎ》よね、とマリナは悪戯っ子のように舌をだす。 「でも二度目は、ちゃんと手伝ったわ。議場前の広場で、地方から出てきた奥方が、やっぱり急に破水しちゃったの。近くにいた女性たちがドレスで彼女のまわりを囲って、その場で出産したのよ。赤ちゃんが産声をあげてくれなくて、ちょうど中にいたおばあさまが赤ちゃんを逆さにして、足の裏をたたいたの。びっくりしたけど、赤ちゃんが産声をあげてくれて——お年寄りの知恵はすごいって、そのとき思ったのよ」  その経験が役立ってよかったわと、けろりとした顔で言うマリナに、ケアルは思わず苦笑した。 「なあに? わたくしのこと、図々しい女だとお思いになったの?」 「いや、思ってないよ。そんなこと」  ほんとうに? と疑わしげに顔をのぞきこんでくるマリナにまた、ケアルは苦笑せずにいられなかった。 「図々しいとは思わないけどね。ただ、すごい度胸だとは思うよ」 「たった二度の経験だけで、自ら手助けをかって出るなんて?」 「うん……まあ、そうだね」  医師でもないマリナが手におえないような事態がおこりえるのは、充分に予想できたことだ。度胸があるというのか、あるいはただの無謀なのか。 「わたくし、あなたがきっとすぐにお医者さまを連れてきてくださるって、信じてたもの。それにあの場で、領民のみなさんたちの目の前で、お医者さまが公館に来てるかどうかなんていう話を続けたら、色々とめんどうなことになっていたでしょう?」  こともなげにそう言うマリナを、ケアルは軽く目をみひらいて見なおした。  マリナにそんな意図があったとは考えもしなかった自分が恥ずかしい。もちろんそれは、彼女に告白されるまで、マリナが自己申告した「何度か出産を手伝ったことがある」という言葉を信じていたからではあったが。  我が身の不明を恥じながらケアルは、マリナの肩を引き寄せた。 「ありがとう。きみがいてくれて、ほんとうに良かった」  あなたに守ってもらうのではなく、あなたを守ってさしあげたいの——ハイランドに向かう船の上で、マリナはそう言った。あのときは、いかにも彼女らしい強がりだと思ったものだ。だがどうして、マリナはその言葉の通りに行動した。  肩を抱かれてマリナは、仔犬のようにケアルにすり寄りながら、 「いまのは、褒《ほ》めてくれたのよね?」 「ああ、感謝しているんだよ」 「良かったわ」  にっこりと、マリナは微笑む。 「わたくしハイランドへ来てから、あなたにご迷惑をかけるばかりで辛かったの。わたくしでも役に立てることがあるんだってわかって、すごく嬉しいわ」  そんなふうに感じていたのかと、ケアルはますます己のいたらなさを恥じた。  そばにいてくれるだけで充分だ、と言ってやりたい。だがきっとマリナは、そんなふうに言われれば憤慨《ふんがい》するだろう。  ケアルは黙ってうなずいて、マリナの肩をよりいっそう引き寄せると、艶やかな彼女の黒髪を優しく撫《な》でた。    * * *  公館にもどったケアルを待ちうけていたのは、ミリオ・ライスの呼び出しだった。  家令に執務室へ行くようにと言われ、マリナと別れて入室すると、次兄が窓際のロト・ライスが愛用する大きな書きもの机の前で、腕を組んで待ち構えていた。  父がいつも政務をこなしていた机である。ただし、父の血で汚れた椅子と絨毯《じゅうたん》は持ち去られ、新しいものが入れてあった。以前は落ち着いた深い色あいの絨毯であり、なんの飾りもない実用向きの椅子であったものが、派手好みのミリオの意向に合わせてなのか、華やかな色調の絨毯、あちこちに細工がほどこされた大きな椅子にと変わっている。椅子と絨毯だけなのに、おかげで執務室はまったく別の部屋のように見えて、ケアルはひどく落ち着かない気分になった。  ミリオは視線でケアルに、そこに立てと合図した。新しく入れた絨毯の、いちばん端。次兄の座る椅子からは、書きもの机と会議用の大卓をへだてた場所だ。おまえと俺とでは立場にこれぐらいの差があるのだ、と言いたげな次兄の態度だった。  ケアルが背すじをのばして立つと、ミリオは組んでいた腕をとき、机に肘をついた。 「なにか言うことがあるだろう?」  抑えた口調でそう言われ、ケアルはやや意外に感じた。父についていた医師をひとり、次兄の許しも得ずに連れ出したことで、厳しく叱責されると予想していたのだ。気性の激しい次兄のこと、いきなり怒鳴りつけられても不思議はない。 「——医師を連れ出したのは、おれの責任です。来てくれた医師やマリナには、なんの咎《とが》も与えぬようにお願いします」  深々と頭をさげてケアルが言うと、ミリオはふんっと鼻を鳴らした。 「なるほど、わかってはいるんだな。おれはまた、きさまがしらばっくれてみせると思ってたがな」 「しらばっくれるなんて……」 「ということは、認めるんだな?」  えっ? とケアルは次兄の言葉に軽く目をみひらく。そんなケアルに、ミリオは指をつきつけた。 「きさまは、父上を殺そうとした。直接手をくだすわけじゃないが、医師を連れ出すというのはそういうことだ。もし医師が不在の間に父上が亡くなっていれば、きさまは親殺しの大罪だ」 「兄上、おれは、そんな……」  あわててケアルはかぶりをふる。するとミリオはうっすらと笑って身を乗り出した。 「言い訳はできんぞ。幸いにも父上に大事はなかったが、きさまのやったことは処罰をうけるに値する。それも未遂ではあったが、親殺し、領主殺しとなれば極刑だ」  ミリオ・ライスの真意を察して、ケアルは我知らず青ざめた。医師を連れ出したことにある程度の覚悟はしていたものの、次兄がこうも問答無用に居丈高《いたけだか》に出るとは予想もしなかった。  しかし、最悪の結果を想像しえなかった自分を莫迦だと思いはしても、医師を連れ出したそのこと自体に後悔はない。たぶんこの先、同じような状況に遭遇したとしても、きっと今回と同じ行動をとったに違いないとケアルは思った。 「ライス領には何十年か前に、領主に謀叛《むほん》を企てた者がいたが、確かそのときは、首謀者ならびにそれに関わった家令全員が絞首刑、その妻子は生涯幽閉されたそうだ」  目を細め、嬉しそうにしか見えない表情をして、次兄は言う。ケアルはぐっと奥歯を噛みしめ、次兄を見やった。 「——おれには、関わった家令も妻子もいません。もしおれに罪があるとしたら、それはおれだけにかかるべきものです」  ぴくっと次兄の眉がはねあがった。 「もし罪があるとしたら、だと?」  低い声で繰り返したミリオは、いきなり拳を机にたたきつけた。 「きさまは親殺しの大罪、極刑はまぬがれんと言ってるだろうがっ!」  肩をいからせ立ちあがった次兄が、末弟に指をつきつけ怒鳴る。  ここまで憎まれ、疎《うと》ましがられていたのかと、ケアルは兄の怒りに赤く染まった顔を見ながら、重い石を幾つも呑みこんだ気分になった。  兄たちが、特に次兄は幼いころから末弟である自分を嫌っていたのだと、ケアルは知っている。同じ領主の息子ではあるが、ケアルは島人の女からうまれた弟で、そんな末弟と同列に並べられるのは穢《けが》らわしい、腹立たしいと兄たちは思っていたのだ。長兄のセシルはまだ、将来家督を継ぎ領主となるべく育てられ、同列とは言い難い。だが次兄のミリオは、ケアルと年齢も一歳しか離れておらず、母親の違いはあっても立場的にさして変わりはない。それがどれほど、次兄にとって業腹《ごうはら》なことであったか、いまになってケアルははっきり理解できた気がした。 「這《は》いつくばって、許しを請うならまだしも、きさまは…………!」  ぎりぎりと睨みつけられ、ケアルは顔を臥せた。怖かったからでも、申し訳ないと感じたからでもない。目を吊りあげ、怒気に赤黒く染まった次兄の顔を見るのは、しのびないように思われたのだ。  荒い息をつく次兄の視線は、頭に身体に、当てられたそこから火がふきそうなほど強く感じられた。やがて視線の力がゆるみ、次兄がどさりと椅子に腰をおろす音がした。 「——まあ、いい。きさまへの処罰は、おいおいじっくりと考える」  完全にではないが、落ち着きをとりもどした声で、次兄はそう告げた。 「兄上の葬儀を間近に控えているからな。これは俺の温情だ。ありがたく思え」  ケアルは、はっとして顔をあげる。 「兄上、セシル兄上の葬儀は——」 「分をわきまえろっ!」  ふたたび、怒声が飛んだ。 「きさまにはそもそも、俺の決定に異をとなえる資格はない。そのうえいまは、大罪をおかした身だぞ。俺に口をきくことさえ、俺の許しなしでできると思うな」  言い放った次兄は、家令を呼んだ。すぐさま若い家令が三人、執務室に入ってくる。 「きさまは、兄上の葬儀が終わるまで、西の山荘で謹慎だ」  公館を離れて別邸へ籠れ、と次兄は言う。しかし西の山荘と言えば聞こえはいいが、実態は歴代の領主が鉱山視察の拠点に使ってきた小屋にすぎない。  家令に両側をはさまれ、執務室を出ていくケアルに、ミリオは「そうだ」と思い出したように付け加えた。 「あのデルマリナの女も、一緒に連れて行け。葬儀の間、あんな女に公館をうろつかれては困るからな」      2  山荘は、他に民家のひとつもない、荒涼とした白い岩だらけの傾斜地に建っていた。  最も近い家屋は、鉱山の賦役《ふえき》にやってきた島人の男たちが寝泊まりする、石づくりの宿舎である。また、この鉱山から採掘される金属で翼がつくられるために、宿舎の近くには翼職人たちの工房が軒《のき》をつらねている。ただし職人らの家は、そこからずっと坂をくだった先の小さな集落にある。  山荘の背後には、白い岩肌をあらわにした険しい山が控え、そこにはおとなの三倍の丈はある滑車を運び入れることができる坑道口がぽっかりと開いていた。そして山荘の入口からは、続く急斜面と遠くにある集落、海原のように青い空が見わたせた。  山荘自体は、わずか二間ほどの石づくりの小屋である。だが、さすがに領主が視察に訪れたときの拠点となるだけあって、小屋といえども内装は美しく、椅子も卓も寝台も公館と同じものが調《ととの》えられていた。 「なんだか空が高く広く見えるわね」  山荘に到着したとき、マリナの第一声がそれである。 「わたくし、海や川が見えないところへ来たのは初めてだわ」  こんなことになってしまって、マリナに申し訳なく思うばかりのケアルだったが、彼女は大勢の家令が目をひからせている公館よりも、この小屋のほうがよほど居心地がいいと笑った。ミリオ・ライスのつけた監視役はいるが、かれらは常にケアルたちを見張っているわけではない。それどころか、監視役の者たちも、近くの集落の領民たちも、島人の母をもつとはいえ領主の息子であるケアルが、兄の葬儀に出席することも許されず、こんな辺ぴな土地に追いやられて可哀相だと同情的であった。  特にケアルたちが山荘に着いた翌日には、マリナが領民の出産を手伝い、赤ん坊の命をすくった噂がひろまり、するとたちまち謹慎すべき静かな山荘は、近隣の集落からの客で大にぎわいとなってしまったのだ。かれらは自宅の庭でとれた芋や青菜、飼っている山羊《やぎ》から絞った乳でつくったチーズ、あるいは家庭で焼いた菓子など、質素だが心のこもった手土産を持ってやってきた。ミリオが派遣した監視役も、そんなかれらを追い払うどころか一緒になってケアルとマリナに、謹慎などで気をおとさぬようにと励ましてくれた。  そしてまた、その翌日になって遠くからオジナ・サワをはじめとする勉強会の面々などケアルの知人・友人たちが山荘を訪れると、今度はケアルの謹慎の原因が産気づいた女性のために公館から医師を連れ出したことだと知れわたり、山荘はますます来客でおおいににぎわったのである。  ケアルが危惧《きぐ》したのは、このために領主が床に臥していると領内に知れわたるのではないか、ということだった。そもそもロト・ライスの容態については、外に知られぬよう公館内でおさえられているはずだ。公館に医師が詰めていることすら、外には知られぬよう気をつかっていたのである。  どこまで知っているのだろうかといぶかしむケアルに、山荘に一泊すると決めたオジナは笑った。 「家令たちの一部は、ひた隠しにしようとしてるみたいだけどね。お医者さまは公館に詰めたままだし、ミリオ・ライスがセシルさまの葬儀の手配をしているって聞けば、だれだって領主さまに何かあったのかってぐらいのこと、わかるよ」  オジナは、ケアルの又従兄弟にあたる。ケアルより四つ年上の、二十四歳。ふつう親族であるならば、公館づきの家令として重要な政務を担うところだが、過去オジナの父親が不祥事《ふしょうじ》を起こしたとされたため、いまだ彼は家令にすらなれないでいる。そんな苦労もあってか、二十四歳の若さながら髪には白いものが混じり、青白い顔色もあいまって、とても年齢相応には見えない容貌をしている。だがそんな状況にあっても、オジナは若い仲間と将来を考え、領内の産業や他領のことを互いに学びあう勉強会を主催していた。ケアルが彼と親しくなったのも、この勉強会にデルマリナを知る者として招かれたのがきっかけである。 「それに、箝口令《かんこうれい》が出されているわけじゃないんだね。若手の家令たちなんか、家族や友人に�ここだけの話だけど�って、領主さまの容態がおもわしくないと喋《しゃべ》ってるよ」  オジナの言葉に、ケアルは頭をおさえて息をついた。 「なんてことを……」 「噂では、ご病気じゃなくて怪我だそうだけど、それは本当なのかい?」 「そんな噂になっているんですか?」  ああ、とオジナはうなずく。 「臥《ふ》せっていらっしゃると聞いて、僕も最初は、ご長男セシルさまが亡くなったことで衝撃をうけられたのだろう、と思ったけどね。でも、怪我だというなら違うね」  オジナの目が、探るようにケアルを見つめる。思わず視線をそらしてしまいそうになる気持ちをおさえ、ケアルはオジナをまっすぐに見返した。するとオジナは、ふっと肩の力をぬいて苦笑した。 「うーん。やっぱりきみに、ひっかけは通用しないか。知人の家令なんかは、僕がそう言っただけで、たちまち取り乱したものなんだけど」  さすがだね、と笑うオジナにケアルは「からかわないでください」と返す。 「いや、からかってなんかないよ。ライス領の家令がみんなきみのようなら、たとえミリオが次の領主となっても安泰だろうに、と思うだけだ」 「わたくしもそう思いますわ」  マリナが笑いながら、ふたりの前に湯気のたつお茶の器を置いた。勉強会に参加する若者たちが、手土産にと持ってきてくれた茶葉である。  デルマリナでは、富豪も庶民も一日に二度三度と茶を飲む習慣があった。デルマリナに産まれ育ったマリナはもちろんのこと、半年ほど滞在したケアルにも、その習慣はすっかり身についてしまった。しかしハイランドでは茶は薬と考えられており、喫茶の習慣などもちろんない。故郷に帰ってからはハイランド産の茶葉を使っていたが、味のほうはどうにもいまひとつだった。マリナが「お茶にだけは贅沢《ぜいたく》がしたいの」と言い出したのは、ケアルたちの乗ってきた船がデルマリナに帰ってしまった頃である。だがもちろん、ハイランドで美味《おい》しい茶葉が手に入るはずもない。するとマリナは、公館の近くでデルマリナ産の茶葉に似た低木を見つけ出し、勉強会に集う若者たちに、茶葉の摘《つ》みかたや醗酵《はっこう》のさせかたなどを教えたのだ。かれらが持参してくれたのは、その茶葉なのである。 「あら。このお茶、すごく美味しいわ」  ひとくち飲んだマリナは、軽く目をみひらいてケアルを見た。つられるように口をつけたケアルも、思わずマリナを見返す。 「ほんとだ。ちょっと甘みがあって、香りもふくよかだ——」  ふたりは顔を見合わせた。 「これは、掘り出しものだわ。デルマリナのものとは違うけど、きっと若い女性に好まれる味と香りだわ」  どれどれと、オジナもひと口すすった。だがデルマリナのお茶など飲んだことのない彼には、このお茶の美味しさはわからない様子だった。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_029.jpg)入る] 「売れるわよ、これは。わたくしが見つけたあの低木を組織的に栽培して、農園をつくるのよ。目端のきくデルマリナ商人なら、最高等級に近い値で買い取るはずだわ」 「最高等級……?」  オジナが、首をかしげる。 「そうね——たとえば、この茶葉を船倉いっぱいに積み込むほど売れば、中古の帆船が一隻買えるぐらいの値がつくわ」  それでもぴんとこない様子のオジナのために、マリナは言い換えた。 「デルマリナでは、中古といえども帆船一隻を買うには、五人の家令が十年働いたお給金を全部集めたぐらいの金額が必要なの」  そりゃすごい、とオジナは目を丸くした。そしてもうひとくち、お茶を口にふくみ、 「これがねぇ……そんな価値のあるものなのか……」  まだひとつ実感をともなわないらしいオジナの横で、ケアルは琥珀色《こはくいろ》のお茶をじっと見つめた。  この茶葉がとれる低木ならば、ライス領のそこかしこに自生している。それならば、農園をつくって栽培することも、さほどの技術や熟練はいらないのではないか。 「——このお茶を、デルマリナに売ろう」  ケアルは茶器から目をあげ、言った。 「ずっと、考えてたんだ。ハイランドでは、領民のほとんどが自給自足の暮らしをしている。特に島人たちは、漁が生活の糧だ。不漁のときは飢えるし、大漁であってもそれらを売り捌《さば》く販路をもたない。かれらには、現金収入を得られるものが必要だ」  マリナの静養のためにしばらく滞在した島では、泥炭を産出していた。かれらは泥炭を売ることで現金収入を得、おかげで他の島々にくらべて多少は豊かな生活をしていた。  もちろん、どの島でも泥炭がとれるわけではない。あるいは、泥炭にかわる現金収入源となるものがあるわけでもない。 「この茶葉がとれる低木なら、平坦地じゃなくても、たとえば島の急な傾斜地にだって栽培できる。摘んだ茶葉を、島人たちから買い取って、まとめてデルマリナに売るんだ」  それならたぶん、どの島も現金収入を得ることができる。芋などの食料と違って、茶葉は自給自足のかれらにどうしても必要なものではない。だからこそ、収穫できたすべてを売ることができる。 「でも、摘んだままの葉では、売りものにはならないわ」 「だったら、有志をつのって茶葉に加工する工場をつくるんだ。工場が島人たちから葉を買い取り、加工して、デルマリナ商人に一括して卸《おろ》す」  話しているうちにまた、新しい案が浮かんでケアルは目を輝かせた。 「そしてその工場に、島人たちを雇い入れるんだ。鉱山などの賦役と違って、茶葉の加工工場なら女や子供でも働ける。それなら島に必要な男手を減らすこともない」  デルマリナ商人が大量に、そして高額で茶葉を買い取ってくれるならできることだ。たとえばライス領内には織物の工房が幾つか存在するが、どれも家族や親戚同士で布や絨毯を織り、それらを売り捌く店に卸している。大きな店舗になると、それらを領外に持ち出して売ることもあるが、量としては微々たるものでしかない。もしそれら織物を、商人が大量かつ高価で買い取ってくれたなら、領内の織物工房はもっと数が多く、そしてそれに従事する人間も多くなっていただろう。けれどそんな大量の織物を買い取る者が、領内には——いや、ハイランドにはいなかった。 「きみの言わんとしていることは、まあ、わかるけど……」  オジナが腕を組み、頭をひねる。 「わたくしも——だって、茶葉を摘みとる人間と蒸したり揉《も》んだりする人間が別だなんて、そんな話は初めて聞いたわ」  マリナもオジナと一緒になって、小首をかしげた。 「でも、考えてみてくれないか?」  ケアルは身を乗り出し、ふたりを交互に見つめた。 「ライス領内には、島が何百とある。何百を相手に、茶葉の加工技術を教えるのは難しい。それにもし教えることができたとしても、できあがった茶葉の品質にはかなりのムラができるだろう」  それに、島によっては茶葉を加工する道具さえ揃えられないところもあるに違いない。できる島とできない島があるのでは、ケアルの目的からはずれてしまう。 「言われてみれば、そうね。一定した品質の茶葉なら、もっと高値で売り込めるわ」  デルマリナ商人の娘であるマリナは、大きくうなずいた。 「うーん、なんだかすごく大きな話だなってことはわかるよ」  オジナはまだ頭をひねりながら、ケアルを見た。 「でも、そんなことを領主さまがお許しになるかな? たとえば織物だって、領外に持ち出すときは関税がかかるだろ? 領外から持ち込まれる織物が高いのも、関税がかかっているからだ」  ちなみに、とオジナは付け加える。 「うちでつくってる織物の場合、領外に持ち出すときは、値の一割が税として取られることになっているよ」 「だから、高い値で引き取ってもらえることが重要なんです」  ケアルは卓に拳を乗せて、言い切った。 「たとえ一割の関税がついたとしても、高い値で卸せるなら採算がとれるはずです」 「そうなるとあとは、領主さまがお許しになるかどうかだね」 「まあ。商売するのに、領主さまの許可が必要なの?」  驚いた顔で言ったマリナに、ケアルとオジナは顔を見合わせた。 「いや……許可がいるという規定はないんだけど——」 「うん。確かにそういう決まりはないね」  工房をつくるのも、ものを売るのも、領主の許可がいるという法律はない。ケアルがそう言うと、マリナはにっこり笑った。 「だったら、おやりになればいいのに。問題は工場をつくる費用と、摘んだ茶葉を買い取る費用、それに働いてくれたひとに支払う給金の費用ね。なんといってもお金が手に入るのは、お茶をデルマリナ商人に売ったあとなんですもの」  ふたたびケアルはオジナと顔を見合わせ、そしてふたりで資金繰りについて具体的な話し合いをはじめたのだった。    * * *  ケアルたちが山荘へ送られた翌日には、各領に向けてセシル・ライスの死亡とその葬儀日程が告知された。もちろん、病床にある領主ロト・ライスに代わり、次男ミリオ・ライスの名でである。  公館では盛大な葬儀の準備がすすめられているらしい、と毎日のように勉強会の面々や、驚いたことに一部の家令たちがケアルのもとへ知らせてくれている。家令たちはミリオを止めてほしいと日に何度も使者をたて頼みこんできたが、そのたびにケアルが次兄に出した手紙は、読まれることもなく捨て去られたようだ。  ケアルにはもう、次兄を止めるすべはなかった。  そんな中、葬儀を二日後にひかえた夕刻、山荘の近くに白い翼の伝令が降り立った。伝令が来たと知らせてくれたのは、ケアルの監視についた若者だった。 「伝令です、伝令が来ました!」  ちょうど山荘の居間で、翼づくりの職人と夕食をともにしていたケアルは、飛び込んできた監視役の言葉に、当然ミリオ・ライスが出した伝令だと思い込んだ。  次兄からの連絡は、ケアルが山荘へ着いて以来まだいちどもない。葬儀の中止を訴えるケアルを叱るにしろ、訴えを聞き入れるにしろ、返事があるのはきっと葬儀のために各領の領主がライス領入りをする前日までだろうと考えていたのである。  伝令を出迎えるため戸口に立ったケアルは、やがて坂をのぼってきた伝令の姿に、眉根を寄せた。飛行服が、ライス領の伝令のものではない。 (ギリ領の伝令か……?)  見てとったとたん、ライス領公館からの伝令だと思い込んでいるらしい監視役に、ケアルはすばやく酒の入った壺を渡した。 「ご苦労さま。良かったら、これでも飲んでてくれ。ちょっと込み入った話になると思うんで、たぶん伝令が帰るのは明朝だろう」  公館からの伝令が山荘にいるならば、監視の必要はないだろう? というケアルの言外の問いかけを、監視役はすぐさま察してうなずいた。気をきかせたマリナが、酒の肴《さかな》となる料理を皿に入れて渡すと、監視役は伝令が山荘にたどり着く前に、嬉しげに酒壺と皿を抱え引き揚げていった。  夕食をともにしていた翼職人にも、丁重に謝罪し、引き取ってもらった。  監視役と客人が立ち去ったのと入れ替わりにあらわれた伝令は、三十代なかばの男だった。おそらく伝令としては、部下を何人ももつ熟練者だろう。 「ケアル・ライスどのですね?」 「——そうです」  うなずいてケアルが一歩前に出ると、伝令は懐《ふところ》から一通の手紙を取り出した。 「ギリ領主の使いで参りました。今夜中に返事をいただくよう、命じられています」  ケアルは差し出された手紙を見おろし、続いて伝令に目を向けてから、しばらく瞑目《めいもく》した。  長兄セシルの葬儀の知らせは、領主ロト・ライスではなく、次兄ミリオの名で各領主のもとへ届けられている。それを不審に思わぬ者は、まずないだろう。  ギリ老は切れ者だ。おそらく、葬儀の知らせを受け取ってすぐ、ライス領内でなにが起こったのか調査させたに違いない。そうでなければ、こんな山荘にケアルが滞在していると知っているはずもない。ロト・ライスが怪我のため床に臥していることは、まず知られてしまっているだろう。  だが、とケアルは思った。  いったいギリ老は、自分などに何の用があって伝令を寄こしたのか。外から見ればケアルは、ライス領主の単なる三番目の息子でしかない。領主の後継ぎでもなければ、領主に影響力をもっているわけでもない。ギリ領主がわざわざ伝令を送るに値するものなど、なにもないのだ。 「ギリ領主どのは、なんと……?」  伝令に視線を向けて、ケアルは訊ねた。だが男は職業的な笑みを浮かべ、首をふる。 「私はただ伝令ですので、主の手紙をこうしてお届けするだけです。ご用件がお知りになりたいなら、手紙をお読みください」  さあ、と手紙が差し出された。  手紙を読まなければ、ギリ老の意図も知りようがない。けれどケアルは、手紙を受け取ることにためらった。  ケアルのもとへギリ老が手紙を寄こしたと知ったなら、次兄はどう思うだろう。想像できるのはまず、自分をないがしろにされたことへの怒り。そして、末弟への疑惑——。  あのギリ領主がなんの意図もなく、葬儀の知らせを出したミリオを通さず、ケアルに直接手紙を送るはずがない——そうミリオは、あるいは次兄のまわりにいる家令たちは考えるはずだ。  ひょっとしたらギリ老は、ケアルを傀儡《かいらい》として、ライス領の実権を握るつもりではなかろうか。そんなふうに考えが至っても、無茶な話ではない。なにしろ、身近にマティン領の例がある。マティン領では、領主が死んだあと、ライス領主が亡くなった領主の長男を、ギリ領主がマティン領の重臣であった義弟を、それぞれ次期領主の座につけようと争っている最中なのだ。  もし今、目の上のたんこぶであるライス領主を取り込んでしまえたら、ギリ領はマティン領とライス領の双方を掌握《しょうあく》できる。老獪《ろうかい》なギリ領主が、その機会をむざむざ見過ごすはずがない。  ケアルは差し出された手紙を、真っ赤に焼けた石炭を見る思いで見つめた。 (受け取ったら……だめだ。いや、そうじゃない……)  たとえケアルが手紙を受け取らなくても、ギリ老がこの山荘に伝令を送ったそのことだけで、次兄は疑惑を抱くだろう。ギリ老がライス領内に混乱を招くことを意図しているとしたら、ケアルに手紙を送る行為だけでその意図はほとんど達成したといえるのではなかろうか。  そこまで思い至って、ケアルは小さく息をついた。 (おれは、莫迦だ。ギリ領からの伝令だとわかった時点で、監視役の目の前で、彼を追い返すべきだった……)  後悔しても、もう遅い。己のうかつさに苦笑しながら、ケアルは伝令から手紙を受け取った。ほっとした様子の伝令に、しばらく待ってほしいと告げて、手紙を開く。  手紙の内容は、あっけないほど単純なものだった。長兄セシル・ライスが亡くなったことへの悔やみの言葉と、葬儀の席で会えることを楽しみにしているとだけ。やはりギリ老の意図は、次兄ミリオとケアルの溝を深くするためのものであったのかと、あらためて確認できる手紙だった。  ケアルは急ぎ、返事をしたためた。わざわざ山荘まで悔やみの手紙を届けてくれたことへの礼と、葬儀に出席してくれることへの感謝を短く述べ、高齢なギリ老に身体を労わってくださいと結んだ。  そっけない文章ではあるが、構いはしない。ギリ老もおそらく、現在のところはこれ以上を望んではいないだろう。  ケアルが返信に封をして渡すと、伝令は恭《うやうや》しい手つきで受け取った。 「ご領主には、よろしくお伝えください」  うなずいた伝令が手紙を懐におさめて一礼し、山荘を出ていくのを見送って、ケアルは力がぬけたように椅子に腰をおろした。 「いったいどんなお手紙だったの?」  気疲れした様子のケアルに、マリナが軽く眉をひそめて訊ねてくる。手紙を見せてやると、彼女は「まあ」とつぶやいた。 「わざわざひとを使いに出して送るような、お手紙じゃないわね。いったいなにが目的なのかしら?」  こんなとき、マリナの聡《さと》さはありがたい。ケアルは微笑んで、隣に座ったマリナの黒い艶やかな髪を撫でた。 「おれに何かあったら、オジナに連絡をとるんだ。彼が、デルマリナ船が来るまできみを保護してくれるはずだから」  とたんにマリナは気色ばんで、ケアルを見返した。 「何かあったらって、どういうこと?」 「わからないから�何か�なんだよ」  苦笑するケアルに、マリナは眉をつりあげて彼の腕をたたいた。 「話をはぐらかさないで!」  マリナの黒い瞳が、ケアルの目をのぞきこむ。 「あなたは、軽々しくそんなことを口にだすかたではないわ。思うところがあるから、そうおっしゃったのでしょう? だったらわたくしに、はっきりと教えてちょうだい。なにも知らないままに、だれかに保護されるなんて、まっぴらだわ」  わかったよ、とケアルはマリナに全面降伏してうなずいた。  彼女の気質はわかっている。ハイランドへ向かう船に密航したときのような無謀さと潔さは、いまだ健在だ。たとえ故郷にはもう一生もどれないとわかっていても、唯一の肉親である父親との永遠の別れになるかもしれないと知っていても、マリナはケアルと共に生きるために、船に乗り込んだ。デルマリナへ帰っていく船を見送った彼女に、迷いのかけらさえもみつけられなかった。 「——ギリ領主から手紙が来たことで、兄上はおれを疑うだろうと思う」 「どんなふうに?」  おれがなにを言わんとしているのか、はたして理解してくれるだろうか。ケアルはマリナの表情をうかがいながら、 「つまり……おれがライス領主の座につこうとしているのではないか、と」  するとマリナは大きくうなずいた。 「ああ。要するに、あなたがギリ領主を後ろだてにして、お兄さまを追い払うつもりじゃないかと、下司《げす》な勘繰《かんぐ》りをするわけね」  容赦のない解説に、ケアルは笑ってマリナにうなずき返す。 「うん、まあそういうことだ」 「人間って、自分がほしがってるものは他のひともほしがってるに違いない、って思うものなのよね。あなたがライス領主の座なんて、これっぽっちの未練もないことは、端で見てるわたくしにもはっきりわかるのに」 「領主になりたいと思ったこともないよ」  でしょうね、とマリナは笑った。 「あなたは、翼で飛ぶことさえできれば、他はなにもいらないのよね」 「そ……そんなことはないよ」  あわてて否定したケアルに、マリナは目を細めて首をかしげる。 「まあ、そうかしら? 飛んでいる最中は、わたくしのことも忘れているでしょう? 大地から足が離れた瞬間、あなたはご自分がケアル・ライスだということすら忘れてしまうんじゃないの?」 「おいおい……」 「よその恋人同士やご夫婦は、お相手が他の女に気を移すんじゃないかと嫉妬《しっと》なさるものだけど。わたくしの場合、嫉妬する相手はいつも空や翼や……そう、風だわ。このひとはわたくしの恋人や夫なんかより、鳥や風になりたいんじゃないかって、あなたが翼で飛び立っていくたびに思うわ」  お願いよ、とマリナはケアルの手に自分の華奢《きゃしゃ》な白い手をそっと重ねた。 「あなたが地上にいるなら、わたくしはどこにだって追いかけていけるわ。でも、あなたが空へのぼってしまったら、わたくしはただ地上からあなたを見あげているしかできないの。それがどんなに辛いことか、おぼえていてちょうだいね」  ケアルは神妙にうなずき、重ねられたマリナの手をぎゅっと握りしめたのだった。       3  翌日は、早朝から雨だった。  細かな雨が降る外に出てみると、坂をくだったところにある集落も、山荘の裏手にひかえる坑道口も、霧に隠れて見えなかった。霧はところどころ真っ白なかたまりとなってゆっくり移動し、その様子はまるで、年老いた生き物が己の巨体をもてあましながら進んでいくように見えた。  山荘の周囲は霧にすべての音を吸い込まれてしまったかのように静まりかえり、いつもは夜明けとともに坑道に入る賦役の領民たちの声や足音も全く聞こえない。この世でいま生きて動いているのは自分たちだけのような気がして、ケアルはいつの間にか鳥肌立っていた己の首すじを撫でた。  昼になっても霧ははれず、夕刻のようなうす暗さの中、公館からの使者が山荘に到着した。黒い雨具に身を包んだ使者の姿に、ケアルは一瞬、父の容態が急変したのかと身体をこわばらせた。だが使者は、次兄の命令であると、すぐ公館へ戻るようケアルに伝えたのである。 「父上の身に、なにかあったのか?」 「いえ。ご領主さまの容態に変化はございません。ミリオさまは、ケアルさまに葬儀への出席をのぞんでおられます」  使者の言葉に、ケアルはマリナと顔を見合わせた。  次兄が葬儀に出席させるためだけに、ケアルを呼び戻すとは思えない。父の容態が急変したのでないなら、心当たりは昨夜のギリ領主からの手紙しかない。次兄はどこからかそれを察知し、ケアルを尋問するつもりなのではなかろうか。  マリナもやはり、同じことを考えたのだろう。いささか顔を青ざめさせて、もの言いたげに唇を震わせた。そんな彼女を安心させるようにケアルは小さくうなずき、 「——用意を」  はい、と返事をして出発の用意を始めたマリナに、使者は表情も変えずかぶりをふってみせた。 「公館にお戻りになるのは、ケアルさまおひとりで、とのことです。あなたはこちらの山荘にとどまってください」  ケアルに対するとマリナに対するでは、あきらかに言葉づかいも態度も違う。しかしそれは、この使者に限ったことではなかった。公館の家令たちは、マリナにどのような態度で対すればよいのか、いまだ決めかねていたのである。デルマリナの有力者の娘というマリナの立場は、家令たちにとってさほど意味をなさなかった。かれらには、遠く離れたデルマリナが自分たちになんらかの影響をもたらすとは思えないのだ。  家令たちが考えるのは、マリナにおもねることで自分に何か利があるのか、この一点だった。もしマリナがケアルの妻であるなら、まだ少しは話が違っただろう。だがまだマリナは、ケアルの妻となってはいない。兄たちがいまだ独身である以上、末弟であるケアルが妻をめとるのはしばらく待つべきであろうとの父の判断である。領主が認め、領主の前で婚姻誓約書にふたりで署名してはじめて、正式な夫婦となれるのだ。  しかし現在、領主である父は生命の危機に瀕している。もし父が亡くなり次兄のミリオが領主の座についた場合、はたしてミリオはケアルとマリナの婚姻を承諾するかどうか。またそうなれば、マリナだけでなくケアル自身の未来も危ういものとなるだろう。 (そうだ、家令たちの気持ちを忖度《そんたく》している場合ではないな……)  ケアルはぎゅっと拳を握りしめ、マリナを振り返った。 「マリナ。兄上は残れとおっしゃったそうだが、きみが残るのは嫌だと言うならば、おれが直接兄上にそう申しあげて説得する」  しかしマリナは、にっこりと微笑んでかぶりをふった。 「いいえ。わたくしは残りますわ。あなたがわたくしのことで、お兄さまに借りをつくるなんて——そちらのほうがよほど、嫌ですもの」 「そうか……」  いかにも彼女らしい理屈だった。  手早く雨具を身につけたケアルに、マリナがひとつにまとめた荷物を手渡してくれた。いま別れると、ふたたび会えるのはいつになるかわからないことは、お互いに承知している。ふたりは抱き合い、目顔で互いの無事を願いあった。 「マリナ、ゆうべ言ったことを忘れないでほしい」  もしおれに何かあったら、オジナと連絡をとりデルマリナへ帰れ、と告げたことを今また繰り返す。 「ええ。でもあなたも、ゆうべわたくしが申しあげたことを忘れないでね」  もういちどかたく抱きしめあって、ふたりは離れた。  ケアルが使者とともに坂をくだっていくのを、マリナは山荘の戸口に立って見送っていた。けれどその姿も山荘もすぐ、霧に隠れて見えなくなった。    * * *  公館へ戻ったケアルは、ひとめにつかぬようにとの配慮なのか、下働きの家令たちがつかう裏口を通って、執務室へ連れていかれた。途中、中庭ごしに大広間から賑やかな人々の声や食器の触れあう音が聞こえてきた。 (明日は兄上の葬儀だというのに……)  高らかな笑い声まで耳に届き、ケアルは思わず眉をひそめる。  おそらく葬儀のために各領から集まった客人たちなのだろうが、中庭をはさんでさえ聞こえるほどである。もしいま父の意識が戻っていてこれを耳にしたら、身動きとれぬ病床でどれほど怒り悲しむことかと、ケアルは胸を痛めずにはいられなかった。  通された執務室には、ひとの姿はなかった。案内の家令が、ミリオに到着を伝えてくると言いおいて出ていこうとするのへ、 「その前に、父上の病室へうかがいたいのだが——」  ケアルが言うと、家令は足を止め、すまなそうに頭をさげた。 「いいえ、こちらからお出にならぬよう願います。申し訳ございませんが、ミリオさまからそう言いつかっておりますので」 「そうか……わかった」  家令を責めることはできない。彼はただ、ミリオの命令にしたがっているだけなのだ。そう自分に言いきかせ、ケアルはうなずくしかなかった。  ひとりになるとケアルは、濡れた髪をぬぐい、ほっと息をついて室内を見回した。気のせいか、山荘へ出立する前にここへ来たときより、室内が雑然としている。どうしてだろうと考えて、書きもの机に目をとめたケアルは、山積みになった書類に気がついた。  これはつまり、政務が滞《とどこお》っているあかしともいえるだろう。父が凶刃《きょうじん》に倒れてから、まだ七日ほどしか経っていない。だのにこの状況は、いったいどうしたことなのか。葬儀の準備に忙しかったと言い訳するにしても、机の天板さえ見えぬほどのこの書類は、あまりに度が過ぎている。  書きもの机に近づいて、ケアルはいちばん上の書類を手に取った。マティン領の島につくると決まった港の、造成工事手配についての案件である。 (ああ、そうか……)  通常の業務であるならともかく、このような領主の政治的判断を必要とする決裁は、領主代理でしかない次兄にはまず無理だろう。これが亡くなった長兄であるならば、父が次期領主としてそばにおき、教育していたぶん次兄よりはよかっただろうが。  デルマリナとの交渉やマティン領でのいざこざなど、特に最近は父でも判断に迷う事項が多い。もし自分のくだした決裁で、ライス領が不利益を被ることになったなら——次兄はそう考えたのだろう。  遠くデルマリナの地で、ケアルも何度そんな場面に遭遇したことか。ただしケアルは次兄のように、決断を先送りすることも、政務に長《た》けた家令に相談することもできなかったのである。 「なにをしている?」  低い声に問いかけられ、ケアルははっとして顔をあげた。次兄が扉のところに立ち、ケアルを睨みつけていた。 「その手に持っているのは、なんだ?」  ふたたび問われて、思わず書類を見おろす。だが次兄は、ケアルの返答などもとめてはいなかった。 「目ぼしい書類を持ってこい、とでも命じられたのか? それとも、ライス領の情報と引き換えに、ギリ領主の座を与えてやるとでも言われたのか?」 「——兄上……?」  ふん、と鼻を鳴らしてミリオは、足音も荒く末弟のもとに近づいた。 「きさまの魂胆など、わかっているぞ。生まれが卑《いや》しいだけでなく、息子と認めてくれた父上への大恩も忘れてライス領を売るとは、きさまは骨の芯まで下司《げす》なんだな」  言い放ったミリオは、ケアルの手から書類をひったくった。あまりの言われように、ケアルは愕然《がくぜん》と次兄を見返す。 「兄上、なにを根拠にそんなことを」  根拠だと? とミリオは口の端を歪めて笑った。 「昨日、兄上の葬儀のためにギリ領主が公館に到着された。質素倹約が信条のギリ老にはめずらしく、従者を二十人もつけてな」  他領を訪れる領主は、護衛と身のまわりの世話をさせるために、数人の家令を従えておもむくのが通例である。家柄と血統を重んじるフェデ領主などは、数十人からの従者たちに揃《そろ》いの上下を着けさせ、列をつくって公館入りすることを好む。だがギリ領主は、多くても三人ほどの従者しかつけず、老齢とは思えぬほど身軽に各領を訪れるのが常だ。  そんなギリ老が、二十人もの従者をつけてやって来るとは、確かに次兄でなくても不審に思うことだろう。 「ギリ老は、きさまにご自分の翼を譲ろうと、従者に持ってこさせたのだ。きさまにこの意味がわかるか?」  ひそかにケアルは、安堵の息をついた。昨夜ギリ領からの伝令が山荘を訪れたことを、次兄が察知したのかと危ぶんでいたのだ。それに比べれば、翼を譲渡される話などたいした問題ではない。 「領主が己の翼を譲るとは、相手を自分の後継者と目したことを意味する。つまりきさまは、ギリ領主から後継者に指名されたというわけさ」  得意げに分析してみせるミリオに、ケアルは遠慮がちに申し出た。 「それでしたら、兄上。おれは父上に、翼を譲っていただきました。けれども父上がおれを後継者と目したわけでないことは、兄上もご存知だったと思いますが?」 「あたりまえだ! 島人の女などから生まれたきさまを、父上がライス領主の後継者とお考えになるはずがない!」  でしたら、とケアルは微笑んだ。 「ギリ領主どのも、そのようにお考えになるはずがありません。ましてやおれは、ギリ領とは全く関わりのない人間です。ギリ老には立派な、ご子息もいらっしゃいます」  ギリ領主の後継ぎであるワイズ・ギリが立派かどうかは、評価の分かれるところかもしれない。父親の顔色をうかがうしか能のないワイズ・ギリ、と領民たちにも噂されているほどだ。だが少なくとも、ワイズ・ギリは血統的にまったく問題はない。 「おそらくギリ老は、以前たわむれに、おれに翼をくれてやるとおっしゃったことを、律義に果たそうとなさっているのでしょう」  そう告げたケアルに、ミリオはにやりと笑って指をつきつけた。 「なんでギリ領主ともあろう御仁が、きさまなどとの口約束を律義にはたさねばならんのだ?」 「ギリ老がそうたわむれをおっしゃったとき、そばに父上がいらっしゃいましたので。おそらくギリ老は、おれとの約束ではなく、ライス領主との約束とお考えになっているのではないかと思います」  他に追及すべきほころびはないかと、次兄はしばらく考えている様子だった。だが難癖《なんくせ》をつける点は、見つからなかったようだ。つまらなそうに鼻を鳴らすと、ミリオはどっかりと椅子に腰をおろした。 「ギリ老は、きさまに会いたいそうだ。行って、あのじじいの相手をしてやれ」  大仰に告げると、扉を指さす。 「謹慎中のきさまを呼び戻す気はなかったが、父上が客人たちに挨拶《あいさつ》もできないうえに、きさまとの面会も断ったのでは、連中にどんな邪推《じゃすい》をされるかわからん、と家令どもが言うんでな」  そうだったのか、とケアルは得心した。次兄のとりまきの家令たちの中にも、ある程度周囲の見える者がいるらしい。  わかりましたと頭をさげたケアルは、踵《きびす》をかえしかけた足をとめ、訊ねた。 「父上のことは……ご領主の皆さんには、なんと説明しているんですか?」 「きさまが気にかけることではない」  ふたたび次兄の顔が不機嫌に歪む。 「いえ、そうではなくて。話を合わせておかなければ、兄上にご迷惑をかけてしまうと思うので」  あわてて説明したケアルを、次兄は探るような目つきで見あげた。 「——父上は、セシル兄上の死に衝撃をうけて、寝込んでしまわれたのだ」  怪我のことは言うなと命じて、ミリオはふいににやりと笑った。 「もしご領主たちに父上の怪我を知られたら、きさまが漏らしたと考えるぞ。俺も家令どもも、ひとことたりと父上の怪我のことなど喋ってはいないからな」  確かに、各領主たちには喋っていないかもしれない。だが、家令たちが「ここだけの話だけど」と、ロト・ライスの怪我をあちこちで噂にしていることは、オジナから聞いた。このぶんでは、すでに領民たちに広く知れわたっていると思っていい。となれば、それが他領の領主の耳に入るのも、時間の問題だといえるだろう。 「しかし兄上、父上の怪我はすでに領民たちにも——」 「領民どもの噂話など、信じる領主がいるものか。父上は、後継ぎの息子に死なれて、気鬱《きうつ》の病となられたのだ。見舞いも、弔辞《ちょうじ》をのべられるのを避けていただくためと言って、断っている。きさまは口を慎み、それと悟られるような態度をとるな。もし軽率なまねをすれば、きさまだけではなく、あのデルマリナの女も咎がおよぶと思え」  聞く耳もたぬといった次兄の態度だった。あるいは、次兄ははなからケアルに、父の怪我を他領に知られた責任をかぶせるつもりなのかもしれない。 「なにをしてる、さっさと行け。行って、ギリ老のお相手をしてさしあげろ」  追い払うように手をふられ、ケアルは奥歯をかみしめ頭をさげた。  山荘では霧のようだった雨が、ここでは大粒の雨に変わっていた。 「雨が降ると、膝《ひざ》が痛んでかなわん」  ギリ老はそう言うと杖《つえ》を軽く振って、部屋の隅に控える従者に合図した。従者は黙って頭をさげ、暖炉の前に跪《ひざまず》いて石炭を足す。 「ライス領の石炭は、質が良いな。ギリ領の石炭では、ここまで暖まらんわ」  赤々と燃える石炭に目をやりながら、老人は息のぬけた声で笑った。 「ありがとうございます」  火のはぜる音に混じって、窓をたたく雨の音が聞こえる。 「明日は、晴れてくれればいいがの。雨にうたれながらの葬儀は、この老体には酷というものじゃ」 「風が西向きに変わりましたから、きっと雨はあがりますよ」  ケアルが言うと、ギリ老は白い眉の下の目を細めて笑った。 「そうか。それならいい」  老体と口では言いながら、このギリ領主は自分を年寄りなどとは少しも思っていないに違いない。だから四十歳をすぎた長男にいまだ家督を譲り渡すこともなく、自ら第一線で政務をとっている。 「せっかく翼をくれてやるのに、おまえさんがその翼で飛んでいるところを見ないで帰るというわけにはいかんだろう。明後日の朝には帰るでな、葬儀が終わったらすぐにでも飛んでみせてほしいものじゃ」 「ギリ領主どの、その件ですが——やはり、翼を譲っていただくのは……」 「わしの翼などいらぬと?」  いえ、とケアルはあわてて首をふる。 「とても名誉なことだと、恐縮しています。けれど、なにも血縁でもなんでもないおれなどにお譲りくださるなんて……。ご子息も、ご長男のワイズ・ギリどのを筆頭に、確か四人いらっしゃるではないですか」  そのうえ、翼を譲るにふさわしい年頃の孫は二十人を越えるはずである。  ふいにギリ老は手にした杖をあげ、その先でケアルを指した。 「言い訳はいらん、正直に言いなさい。ほんとは、迷惑しとるんじゃろう?」  その通りではあるが、まさか正直にうなずくこともできない。 「わしがおまえさんに翼を譲ると言ったら、もう大騒ぎじゃったよ。家令たちは考え直せと詰め寄ってくるし、うちの莫迦息子は……やっぱり莫迦じゃな。わしの気が変わらないと知ると、よそに翼をやるぐらいならいっそ捨ててしまえと思ったんじゃろう、翼に火をつけようとした」  気持ちはわかるが、翼はそう簡単に燃えるものではない。油をかけて火をつければ、羽根の部分は燃えるだろうが、そこは何度でも張り替えがきく。 「家令たちはわしに、ライス家の三男坊にギリの家督を譲るつもりなのか、と訊ねおった。おまえさんのほうでも、そう言われたんじゃないかね?」 「ええ。でも、そんなことはありえないと、皆がわかっていますから」  もちろんギリ領の家令たちも、ありえないとわかってはいるだろう。しかし、翼を譲るという伝統的行為の重みは、だれも払拭《ふっしょく》できはしない。 「家令も息子たちも、わしよりずっと若い。だのにどうしてだか、連中は年寄りのわしよりずっと頭がかたいのだ。考えてもみなされ、翼を譲られてそれがなぜ、家督を譲ることにつながるのか。翼は飛ぶためのもので、領内を治めるなんのたすけにもならん。習慣だから、伝統だから、と連中は言うが——そんなもののために、まともに飛んだこともない莫迦息子に譲られてしまっては、翼のほうもいい迷惑だろうて」  ケアルは軽く目をみひらき、老人の皺だらけの顔を見つめた。 「道具はなんでも、使われてこそ道具としての価値がある。そうは思わんか?」 「ええ、そう思います」  はっきりうなずいたケアルに、ギリ老は目を細めながらうなずき返す。 「時代は変わりつつある。息子の代には、わしが領主の座についたときとは、なにもかもが変わっているじゃろう。習慣だの伝統だのが通じる時代は、もう終わったんじゃ。ところがひとの頭の中は、全く変わってはおらん。このままでは、ひとは時代の変化についてはいけなくなるだろうて」  大きな驚きをもって老人を見つめる若者に、ギリ領主は笑ってみせた。 「こんな老いぼれがなにを言う、と思っておるんじゃろう?」  いえ、とケアルはあわてて首をふる。 「ただ……おれが考えていたのと、すごく近いことをおっしゃったので」  デルマリナから帰って、ケアルはずっと考えていた。ハイランドの人々は、デルマリナとの彼我《ひが》の差を正しく認識できていない。ひたすら怖れる者、居丈高になってデルマリナを貶《おとし》める者、人々の反応はたいていそのどちらかだ。  もちろん人々は、あまりにもデルマリナを知らない。かれらが知っているのは、海のむこうからやって来る巨大な帆船のみである。ハイランドでは見ることもない、おそらく作ることもできないだろう巨大な帆船。それを目にした衝撃は、誰の上にも大きい。  そんなかれらに、デルマリナを正しく認識してもらうには、どうしたらいいのか。それを思ったとき、ギリ老がいま言ったとよく似たことを考えたのだ。  時代は変わる。これまでの習慣や価値観はやがて、時代からとり残されるだろう。海のむこうから巨大な帆船がやって来たあの日に、ハイランドには帆船だけでなく、大きな時代の波が訪れたのだ。これまでの価値観でははかることができない、新しいものが。 「そうか……やはり、惜しいの」  嘆息《たんそく》するような声に、ケアルは首を傾げて老人を見やった。 「おまえさんじゃよ。孫娘の婿《むこ》に、ぜひとも欲しかった。断られてしもうたが、やはり惜しい」 「そんな……」 「そういえば、孫の婿になるのを断った理由は確か、心に決めた女がおると言っておったな?」  はいとうなずいたケアルを、老人は値踏みするような目で見つめた。 「その女子は、デルマリナから来た娘だそうじゃが——このわしに、紹介はしてくれんのかね?」  ケアルはぐっと息をのみこんだ。 「申し訳ありません。彼女は……その、山荘のほうに滞在していますので」  昨日は山荘のほうまで伝令を遣わせていただき、ありがとうございました、と付け加える。老人は「いやいや」と首をふり、 「まだ山荘におるということは、彼女は明日の葬儀には出席せんのかね?」 「はい。ちょっと、事情がありまして」 「事情? ほう、どんな事情かね?」  白い眉の下の目が、瞬間、鋭い光を放ったように感じられた。  おそらくこの老獪なギリ領主は、ケアルの言う事情などすでにお見通しなのだろう。しかし相手が知っているからといって、真実を打ち明けるわけにはいかない。もちろんマリナのことだけでなく、ライス領主である父の怪我についても同じだ。 「ごく個人的な事情です。慣れない土地での暮らしに、少し体調をくずしまして。静かな山荘で、しばらく静養したほうがよかろうとの、医師のすすめです」 「将来の夫となるおまえさんの、兄上の葬儀にも出られんほど、悪いのかね?」 「葬儀にはこうして、各領のご領主がいらっしゃいます。気をつかわせては、ようやく体調をもちなおしたものをまた悪化するのではないかと、ご領主の皆さまには失礼を承知のうえで、山荘に残しました」  ケアルの苦しい弁明に、老人は口の端を歪めて笑った。 「そうか。そういうことにしておくかの」  ギリ老はうなずき、部屋の隅に待機する従者へ、ケアルのためになにか冷たい飲み物を持ってくるよう指示した。 「いえ、おれはもう……」  あわてて立ちあがり辞退したが、ギリ老は「まあまあ」と座りなおすよう促す。  すぐに冷たい飲み物が運ばれてきて、ケアルは仕方なく座りなおし、盆の上から器を受け取った。器の中身は、柑橘《かんきつ》系の果実を混ぜた、よく冷えた水である。 「ところで、おまえさんは知っておるか」  ケアルが飲み物に口をつけたのをみはからって、ギリ老は話題を変えた。 「マティン領内で、島人どもがデルマリナ船を乗っ取ったらしいが?」  はっとして、ケアルは顔をあげる。 「その顔は、知っておるようじゃな」  知っているもなにも、デルマリナ船を乗っ取った島人たちと直接交渉にあたったのはケアルである。かれらには、船員たちを解放しデルマリナ船を退去するかわりに、船を乗っ取った罪をとわぬよう、ライス領主の了承をとりつける、と約束した。  忘れていたわけではない。だが、交渉から戻ってみると、父は倒れ意識もない状態だったのだ。あれからもう、七日ほど経つ。いつまで経っても知らせを寄越さぬケアルに、かれらはもう信用などできぬと、次なる行動をおこしているかもしれない。 (そうなっては……取り返しがつかないことになる)  父の回復を待つしかない、と考えていた。少なくとも、領主の代理をつとめている次兄では、たとえ了承をとりつけたとしても、マティン領へのおさえとはならないだろう。 (だったら……いや、しかし……)  飲み物の器を抱えこみながら、ケアルは判断に迷った。  領主の死で、マティン領は現在、次期領主に据えるべき人間をめぐって混乱している。ライス領は領主であったレグ・マティンの息子をおし、ギリ領は彼の身体が弱いことを理由に、ギリ領主の妹婿を支持していた。マティン領において、ライス領とギリ領はいわば敵対関係にあるのだ。 (だが……そんなことは、かれらには関係がない)  要は、かれらが罪にとわれないことのみが眼目なのである。 「——ギリ領主どの」  ケアルは決意して、老人を正面から見つめた。 「お願いがあります。聞いていただけますでしょうか?」 「内容によるな」  老人とは思えぬ鋭い眼光に、ケアルは一瞬だけたじろいだ。しかし次の瞬間には、胸をはり頭をあげて、老人を見返す。 「デルマリナ船を占拠した、マティン領の島人たちのことです」 「ほう。それは、聞くだけ価値のありそうな話じゃな」  おまえさんの願いをかなえるかどうかは別にして、とギリ老は杖を持つ手に体重をかけ、前へと乗り出した。      4  ケアルが予想した通り、葬儀の日は朝から快晴となった。  澄みきった空にギリ領主の伝令が二機、マティン領をめざし飛んでいくのを、ケアルは公館の前庭に立ち、ながめていた。ギリ老は昨夜のケアルの願いを聞きとどけ、マティン領公館とデルマリナ船を占拠した島人たちのもとへ、伝令をだしてくれたのだ。  これがギリ領を利する行為になるかどうかは、まだわからない。しかし、もしそうなったとしても、自分は後悔しないだろうとケアルは思った。意識をとりもどした父や、あるいは次兄に断罪されたとしても構わない。  ふと視線を感じ公館の窓を見あげると、ギリ老が窓辺に立ち、こちらを見おろしている。ケアルは姿勢をただすと、ギリ老の立つ窓に向かって頭をさげた。 (ありがとうございました)  深々とさげた頭をあげると、窓辺にはすでにギリ老の姿はなかった。  踵《きびす》をかえしたケアルは、屋内に入ると早足で父の病室に向かう。いまなお病室には医師が詰めており、懸命な看護が続いている。ケアルの頼みで病室を離れたあの医師は、解任されたと聞いた。代わりに呼ばれたのは、解任された彼よりも若い新人医師だった。 「容態は、どうですか?」  ケアルが訊ねると、新人医師は緊張した面もちでかぶりをふった。 「時々、意識はもどられるのですが……そばにいるのがだれなのか、わかっていらっしゃらない様子なのです」 「食事などは、どうしていますか?」 「もちろん固形物は召しあがることはできません。流動食を口にお運びすると、無意識になのか口を動かし、召しあがってくださいます。けれど、量はとても少なくて」  このままでは、回復に必要な体力を維持できないでしょう、と医師は悲しそうに首をふる。 「しかし我々は、ご領主の強靭《きょうじん》な意志力に賭けています。こんなことを言うと、医師として無力感をおぼえずにはいられませんが」  医師の言葉にケアルはうなずくこともできず、ただ黙って相手の目を見返した。  寝台に横たわる父は、最後に会ったときよりもはっきりわかるほど痩《や》せやつれている。父の腕はこんなに細かっただろうか、乱れた髪に、こんなに白いものが混じっていただろうか。ケアルは涙が出そうになった。  家令に剃刀《かみそり》を持ってきてもらい、父の髭を丁寧にあたった。かさかさに乾いた肌は刃の滑りが悪く、何度も剃刀を濡らさねばならなかった。 「父上、今日は兄上の葬儀なんです」  目を閉じたまま動かぬ父に、話しかける。長男の死を、父は知らない。それははたして幸せなことなのか、それとも息子の葬儀にさえ参列できぬと嘆くべきなのか。  父の髭を剃り終えると、ケアルはうしろ髪を引かれる思いで病室をあとにした。  葬儀の会場は、公館の中庭だった。  白い流し旗が何本も立ちならぶ中、花々の絨毯の上に棺《ひつぎ》が置かれた。黒衣を身につけた参列者たちが順に、白い生花を棺の中へ入れていく。雇われた泣き女たちが流し旗のむこうで、声をはりあげ泣いていた。  棺のそばには次兄が立って、献花する参列者たちに頭をさげ続けている。本来なら末の弟であるケアルも次兄とともに、参列者たちに挨拶せねばならない。だが次兄は、それを許さなかった。  たちまち棺の中は花で埋まり、花嫁の白いレースのように、棺の周囲にひろがった。  最後のひとりが花をそなえると、親族たちの手で棺が蓋《ふた》され、釘が打ちつけられた。参列者たちが見守るなか、若い家令たちによって棺が持ちあげられ、公館にほど近い丘のライス家代々の墓地へと運ばれる。親族たちは棺のあとにつき、列をつくって墓地へと向かうのだ。ケアルは親族たちの列の、最後尾だった。  長兄が永遠の眠りにつくのは、墓地の海側にある一角だ。深く掘った穴の底に棺がおさめられると、親族たちが順に土をかけ、女たちの手で花が投げこまれる。  女たちがすすり泣く声を聞きながら、ケアルは親族たちのうしろからぼんやりと、土や花に隠れていく棺をながめていた。  六歳はなれた長兄とは、ほとんど言葉を交わすこともなかった。顔を見ればからんでくる次兄と違って、長兄はケアルが頭をさげて挨拶をしても、どこか居心地の悪そうな顔をして、小さくうなずくだけだった。次兄の考えていることは言葉や態度の端々からわかったが、長兄がケアルや次兄をどう思っているのか、うかがい知ることはできなかったのだ。次期領主として生まれ、育てられた長兄は、ケアルの目からはいささか気弱で領主たる貫禄《かんろく》には欠けていたようにも見えたが、それでも前途は洋々であったはずだ。  それがどうして、こんな死に方をしなければならなかったのか。 「自殺だったんだって?」 「ご自分で、崖《がけ》から身を投げたそうだ」  親族の男たちが、声をひそめて話すのが聞こえた。 「しかし、どうして自殺なんか……」 「噂によれば、姿を消す直前に、ご領主と言い争いをしたそうだ。執務室を通りかかった家令が、争う声を漏れ聞いたらしい」 「おいおい。それは、聞き捨てならんぞ。ご領主は執務室で、暴漢に刺されたんだろ」 「さあな。どこの暴漢か、知れたものではないと言えるな」 「まあ……セシルさまは、なんでも考え込むたちだったからな。ギリ領主の孫娘との結婚話も、自分にはまだ早いのではと考え込まれて、おじゃんになったし」 「二十六にもなって、早いもなにもあるもんか。あれはな、ちょうど同じころ下のミリオさまに、マティン領主の娘との婚約話がもちあがって、そっちの娘のほうがより領主の直系に近かったものだから、拗《す》ねてしまわれたんだよ」 「ああ、なるほど」 「しかし、セシルさまは亡くなられ、ご領主はこの通りご自分の息子の葬儀にも出られん状態で——この先、ライス領はどうなるんだろうな?」 「順当にいけば、ミリオさまがご領主となるんだろ?」 「おいおい、ミリオ�さま�か? ついこの間まで、呼び捨てにしてたくせに」 「仕方ないだろ。おまえだって、呼び捨てどころか、放蕩《ほうとう》息子だの乱暴者だの、ひどい言いようをしてたじゃないか」 「まあな。実際、ミリオさまがそのうち領主になるのかと思うと、気が重いよ」 「そのうちじゃないだろう? もうすっかり領主気取りで、若い家令たちをぞろぞろ引き連れ、公館内を闊歩《かっぽ》してるぞ」 「格好だけは一人前だな。陰で家令たちがなんと噂してるか、知りもしないで——」  男は「おっと」と口をつぐんだ。親族全員が棺に土をかけ終わり、ミリオがこの場にいる皆を見回したのだ。  埋葬した棺を取り囲んでいた親族たちが、より血縁が近い者から順に、喪主であるミリオに近づき、悔やみの言葉をかけていく。 「さて。我々も、新領主のご機嫌をとりにいくとするか」  歩きだした男たちのうしろ姿を見送って、ケアルは小さくため息をついた。聞きたくもなかったことを、聞いてしまった。胸のあたりが、鉛のかたまりでも呑みこんでしまったかのように重い。  見あげた空を、渡り鳥の群れが見事な隊形を崩すこともなく横切っていく。陽射しに光る羽根の色は、きらめくような金。それは、デルマリナで別れた親友の髪の色を思い出させた。 (エリ……、いまここにエリがいてくれたなら……)  底抜けに明るい性格の親友は、この胸の重さなど吹き飛ばしてくれたに違いない。顔をくしゃくしゃにして笑って、ケアルの背中をぽんとたたき、おまえはいつも考えすぎなんだよ、と。  笑いあい、ふざけあった日は、もう遠い。この海を越え、デルマリナへ行くよりも、もっともっと遠い……。    * * *  埋葬が終わったあとは、葬儀に出席した者たちが故人の思い出を語りあいながら、酒を酌《く》み交《かわ》すのが慣例だった。  宴席は、公館の大広間に設けられた。壁際には弔問客らから贈られた花々が飾られ、いちばん奥の壁には、セシル・ライスのありし日の肖像画が掲げられている。  所在なく扉近くにたたずむケアルに、ギリ老が従者を左右にしたがえ、近づいてきた。出席者たちはだれもが、ギリ老の顔を知っている。人々は競ってギリ領主へ挨拶しに近づいてきたが、老人はかれらを杖をひょいひょいと振るだけで遠ざけた。 「そろそろいいかの? わしはもう、帰らねばならん。領地に残してきた莫迦息子がいつまた、どんな阿呆なまねをするか、わからんのでな」  ギリ老はそう言うと、ケアルに外へ出るよう促した。  前庭にはすでに翼が準備されていた。うすい草色の地に、飛び魚が向かいあってはねている図案のギリ家の紋章が濃紺で織り込まれた、優美な姿の翼である。ケアルが父から譲られたものよりも前後に長く、先の部分が鳥の嘴《くちばし》のように尖《とが》っている。  ケアルは離れの自分の部屋で、飛行服に着替えた。グローブを着け、ゴーグルを頭にとめると、身も心も引き締まる気がする。  初めて扱う機体だ。そのうえ、代々の所有者のくせがついているかもしれない。ケアルは翼のまわりをゆっくり歩きながら、機体のそこここに手を触れ、確かめてみた。 「この機は、右へ回りたがるんじゃよ。すこぉし右が重いのかもしれん」  ギリ老の助言にうなずいたケアルはそこで、いつの間にか大勢の人々が庭へ出てきていることに気がついた。 「よろしいのですか?」  ギリ家の紋章がある翼を、ライス家のケアルが操縦する。それを大勢の者に見られてしまうが、それでもいいのか、と訊ねる。するとギリ老は、目を細めて笑った。 「あんな者どもは、芋だと思えばいい。大芋も小芋も、この場の賑《にぎ》やかしじゃ」  ギリ領主はそう言ったが、老人のそばにつくギリ領の従者は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。翼をケアルに譲る件にしろ、現在の状況にしろ、当然ながらギリ領内では歓迎されてはいないのだろう。  時代は変わる。これまでの価値観は通用しなくなる。昨夜ギリ老は、翼をケアルに譲る理由をそう言ったが、はたしてギリ領の人々に老人の意図が理解できるだろうか。  そう考えてケアルは苦笑した。そんなことは、ケアルが心配することではない。ギリ領主が考えることだ。  ケアルは機体の下に入ると、飛行服の革ベルトと翼の留め具をつないでいった。機体の形はライス領のものと少々異なるが、留め具の形や数、操縦桿の太さと長さなどはどの領の翼も共通だ。  ケアルは操縦桿を握って、ギリ老を振り返った。老人がうなずく姿のむこうで、前庭に出てきた客たちが、あれは何だとこちらを指さして囁き交わしているのが見える。 「——行きます」  そう告げるとケアルは構わず、短く刈り込まれた草を蹴《け》った。  前面には、海。球形を描くように、青空がひろがる。風は潮と雨の匂いを含み、いつもよりやや強い。昨夜までの雨を吸った草は、短く刈り込まれているにもかかわらず、少しばかり柔らかい。あらゆることが、五感から伝わってくる。  強い風がすくいあげるように、ケアルと翼を宙へ放りなげた。ぐんっ、と羽根の布地が張る感覚が、全身につたわる。  ギリ老が言ったように、機体は右へまわりたがった。それを軽く操縦桿を押してやることで、微妙に左右の均衡を保つ。風切り音が、いつもより鋭い。前後に長い機体のせいだろう。  みるみる最初の島が近づいた。前後に長い機体は、速度が出るようだ。ケアルは機体がまわりたがる右ではなく、左に旋回させた。機体と身体が左に傾き、視界が斜めに海から空をなめていく。  公館に近い海上まで戻ったケアルは、ギリ老によく見えるように、その上空で右へ左へ自在に旋回してみせた。いい風が翼を持ちあげ高度があがると、螺旋《らせん》を描いて旋回し、わざと失速させながらぎりぎりのところまで高度をおとす。そしてまた上空へ、身を投げるように舞いあがった。  翼に乗りはじめたころは、よくこんなふうに風と戯《たわむ》れたものだ。遠出はまだ早いと許されず、公館周辺の海上をぐるぐる回り、そこで旋回や降下のやりかたを覚えた。当時は身体が冷えきり、指先がすっかりかじかむまで飛び続けたものだった。  最後にふたたび空の高みまで駆けあがり、ケアルは大きく旋回しながら地上を見おろした。左右にのびる白く険《けわ》しい稜線《りょうせん》、小箱のような家々が崖にへばりつくように建ちならぶ。そこだけ青いのは、公館の屋根だ。前庭には、多くの人々が出ているさまが蟻《あり》のように見える。  ふとケアルは、このまま山荘まで飛んでいき、マリナを連れてどこかだれもいない島へでも行ってしまいたい、と思った。地上には風がない。風は吹いているけれども、それはケアルを自由に飛ばせてくれるこの風とは違う。足にからまり、腕を引き、ケアルを地上に縛りつける風を風とは呼びたくない。  けれども、とケアルは唇をひき結んだ。地上の風に、おれは立ち向かわねばならない。故郷を捨てて追いかけてきてくれたマリナのためにも、意識のもどらぬ父のためにも、ケアルを知る大勢の人々のためにも。そして、遠く離れたデルマリナにいるだろう親友の心に応えるためにも。  操縦桿を握りなおして、着地体勢に入った。正面に公館の前庭を置き、余裕をもって高度をさげていく。愛しささえ感じる風が、別れを告げるようにケアルの頬を耳を袖をたたいて、うしろへ流れていった。  みるみる近づく前庭の青い芝を見すえて、速度を徐々におとす。操縦桿や留め具を通して、速度をおとす小さな衝撃が何度もつたわってくる。何度めかの衝撃のあと、ケアルの右足が大地をとらえた。やがて翼は羽根を休めるようにふわりと、その優美な身を草の上に横たえた。  留め具をはずすケアルに、ギリ老の従者たちが駆け寄ってきて、翼をささえてくれた。あとからゆっくり近づいてきたギリ老は、留め具をすべてはずし、翼の横に立ったケアルに、白い眉の下の目を細めて笑いかけた。 「いや、いいものを見せてもらった」  満足げな表情でそう言うと、ケアルに手を差し出す。ケアルはあわててグローブをはずし、老人と握手した。 「長く死んでおったこの翼が、若い命を吹き込まれたように蘇《よみがえ》った。わしは、死ぬまでにこの翼が生き生きと飛ぶところを見られるとは思っておらんかった」 「いい機体です。美しいのに力強くて、どんな難しい注文にも応えてくれます」 「そうじゃろう、そうじゃろう」  我がことを褒められたかのように、老人は嬉しそうに笑いながらうなずいた。 「いささか気難しいところはあるが、気の合った乗り手には、これほど素晴しい伴侶《はんりょ》はあるまい」  おまえさんのことじゃよ、と老人はケアルの背中をたたく。 「やはり、わしの目にくるいはなかった。この翼は、おまえさんに譲るのがいちばんじゃ。翼にとっても、暗い倉庫にずっと押し込められておるよりよほど、幸せじゃろう」  遠巻きにこちらを見ていた人々が、翼の周囲に集まってきた。 「すばらしい飛行だった」 「あんな急旋回は、初めて見たよ」 「まるで翼が、きみの手足のようだった」 「あの、急に高度をおとすのは、いったいどうやってやるんだ?」  口々に言いながら、ケアルに握手をもとめてくる。それにいちいち応えるケアルを、しばらく目を細めてながめていたギリ老は、やがて人々をゆっくりと見回した。 「ここにおる、皆さんが証人じゃ」  なんのことかと、全員が老人に注目する。見計らったようにギリ老は、人々に向けて宣言した。 「わしはこの翼を、ここにおるケアル・ライスに譲ることにした。この翼は、ギリ領主に代々ったわる名品じゃ」  驚いた人々が互いに顔を見合わせる。 「まさか、そんな……」 「いや。ほら、ギリ家の紋章が入った翼だ。本物だぞ」 「だったら、どうして……?」 「ということは、ライス家の三男坊がギリ領主の後継ぎになるのか?」 「まさか。ギリ領主どのには、ご長男も健在だろう?」  ひそひそ交わされる声を聞きながら、ギリ領主は悪戯が成功した子供のような顔で笑った。 「ここにおるケアル・ライスは、この翼にふさわしい技量と品格をかねそなえた乗り手じゃ。わしはそれを認め、彼に翼を譲ることにした」 「——それは、次期ギリ領主の座を、彼に譲ると決めたのだと、受け取ってよろしいのでしょうか?」  一歩前に出て訊ねたのは、確かフェデ領からの弔問客である。ギリ老は質問者をぎろりと見やって、 「わしがいつ、そんなことを言ったかな。わしは翼を譲るとしか言っておらんが?」 「し……しかし、慣例では——」 「悪しき慣例、じゃな。わしはこの通りの年寄りじゃが、悪しき慣例をあらためる程度の気概は持ち合わせておる」  ふたたびギリ老は、ケアルに握手をもとめた。 「この翼、受け取ってもらえるかな?」 「よろこんで」  握手を交わすふたりに、どこからか拍手の音が聞こえてきた。人々は互いに顔を見合わせ、やがてある者は渋々と、またある者は我が意を得たりとばかり満足げに、次々と拍手の輪へ加わりはじめた。  そんな拍手の音に気づいてか、公館からはあらたな人々が前庭へと出て来た。事情を聞いて、かれらもまた驚いたが、やはり同じように拍手の輪に加わった。  かくして百名に近い人々が証人となる中、ケアルはギリ領主から正式に翼を譲り受けたのだった。 [#改ページ]    第十五章 伝説の鳥、飛び立つ      1  葬儀が終わったあと、ミリオ・ライスはもう弟のケアルを、処罰することも山荘に謹慎させることもできなくなった。  島人の女から生まれた三男坊、という程度の認識しかされていなかったケアルがいまや、あの厳しいギリ老が目をかけた若者としてライス領内はもちろんのこと、ハイランド中に広く名を知られることとなったからである。ギリ領主が領内の反対を押し切り、代々受け継がれてきた翼を、血のつながりなどまったくないケアルに譲ったのだ。ケアル・ライスとはよほどの傑物《けつぶつ》に違いない、と各領から注目されてしまっては、ライス家の名誉のためにも処罰などできようはずがない。 「きさまという奴は、生まれが卑しいだけあって、ひとの気をひくのが得意らしいな」  などなど、思いつく限りの罵倒《ばとう》の言葉を投げつけられはしたが、次兄はケアルが公館にとどまることを許し、マリナが山荘から戻ることも許可したのであった。  マリナが公館に戻った日に、ギリ老から伝令が到着し、ケアルは、デルマリナ船を占拠した島人たちがギリ領主のお墨付を得て、船員たちを解放し船を降りたことを知った。ケアルはすぐさまギリ老に手紙を送り、ご尽力《じんりょく》いただき感謝しますと伝えた。  次兄はこのやりとりを知り、すぐさま問いただしてきたが、ケアルはあくまでも「翼を譲っていただいた礼状を出しただけ」と言い張った。次兄も弟とギリ領主の間に伝令による手紙のやり取りがあったことはわかったものの、それがどんな内容であったかまでは知りうる手段を持たなかったのである。  一方、ケアルとオジナをはじめとする勉強会の面々は、中のひとりが所有する土地を借りて、お茶の試験栽培に踏み切った。広い土地で大量の茶葉を栽培する前に、まずはこれだけでどれほどの収穫となるか、また栽培に必要な人の数、加工に要する費用など、確認してみようと考えたのだ。  この新しい試みに、参加者たちは夢中になった。これまでライス領内はもとより、ハイランド中を捜しても、こんな共同事業をおこした者はいなかった。ゆえにこの茶の栽培は他領からも注目され、それにケアル・ライスが関わっていると知られると、さすがギリ領主が見込んだ男だと噂されたのだった。  ケアルが次兄に呼ばれたのは、オジナと頭をつきあわせ、お茶を加工する場所をどこにするべきか話し合っていたときだった。試験栽培とはいえ、どこか個人の家で加工できる量ではない。どこか専用の家屋が必要だと結論したのである。 「兄上が……?」 「はい。すぐに執務室へおいでになるようにとのことです」  思わずケアルは、オジナと顔を見合わせた。次兄がいったい何の用件だろうか。 「まさか、この件かな?」  次兄の呼び出しを伝えにきた家令が行ってしまうと、オジナが机にひろげたライス領内を指さして訊ねた。 「さあ……。どうでしょうか」 「こいつは、注目されてるからね。彼にしてみれば、きみばかりが評価されて、腹立たしく思っているんじゃないかな」  気をつけたほうがいいよ、と注意する声に送られて、ケアルは執務室に向かった。  執務室はいつの間にか、すっかりミリオの居室と化していた。ケアルが室内に入ってみると、中央の大卓の周囲には、次兄の取り巻きともいうべき若い家令たちが数人、我がもの顔に座りこみ、昼間だというのにだらしない姿勢で酒杯を傾けていた。 「これはこれは、我が弟ぎみ。こんなところまでご足労いただき、光栄ですぞ」  酔っているのか、次兄は赤い顔をして大袈裟《おおげさ》に両手をひらいてみせた。するとその尻馬に乗るように、若い家令たちもやんやとはやしたてた。 「——兄上、これはいったい何の騒ぎですか?」  室内を見回しながらケアルは、肩をすくめた。ライス領の中枢となる執務室とは、とても思えない。 「おい、みんな。聞いたか?」  わざとらしく目をみひらいて、次兄は若い家令たちに訊ねた。 「ええ、聞きましたよ」 「なんの騒ぎか、ですと。さすがは英俊《えいしゅん》との誉《ほま》れ高《たか》いケアルどのですな」 「いやいや、さすが。ご領主代理をつとめる兄ぎみを諭《さと》すがごとき言動は、ケアルどのしかおできにならない」  口々に言う家令たちをにやにや笑いながら見やって、次兄はどっかりと書きもの机に足を乗せた。 「そうだろう。俺は、こんな弟をもって幸せと思わねばならんらしい」  次兄はそう言うと、手にした器の中身をぐっと呷《あお》った。 「兄上、この状況をもし父上がごらんになったら、どんなにお歎《なげ》きになるか、お考えください」 「うるさいっ!」  怒鳴ったミリオが机から足をおろし、いきなりケアルに器を投げつけた。器はケアルの胸にあたり、少し残っていた酒が周囲に飛び散った。  ケアルは情けない思いで、落ちた器を拾いあげ、そばの大卓の上に置いた。ケアルの胸もとから、きつい酒の匂いがたちのぼる。 「差し出口をたたくな! きさまなど、俺のお情けで生き延びているんだぞ。俺がその気になれば、きさまは父上をあやめようとした罪で、首を刎《は》ねられるんだ!」  かなりの酒量なのか、一気にそう怒鳴ったミリオは、息も荒く肩を上下させた。そして身を乗り出し、ケアルをにらむ。 「きさまには、きさまにふさわしい使命を与えてやる。領主代理たる俺の、直々の命令だ。断ることは許さんぞ」 「——なんでしょうか?」  静かに訊ねたケアルに、次兄は乱雑な書きもの机の上から書類を一枚ぬき取り、拾えとばかりに床へ投げ捨てた。次兄に近づき書類を拾いあげたケアルは、書面をざっと読んで目をみひらいた。 「これは…………」 「マティン領内に停泊している、デルマリナ船からの訴えだ。船を占拠し、デルマリナの水夫を監禁したマティン領の島人どもは、どういうわけか処罰もされなかったそうだな。デルマリナ船の連中は、そのことに憤《いきどお》っているらしい」 「しかし兄上、他領の内政に干渉することはできないのでは?」 「そうだな。マティン領の決定には、口出しすることはできん。だがな、そこにあるようにライス領の島人どもが何人か、デルマリナ船の占拠と水夫の監禁に加担したというじゃないか。ライス領内のことだったら、領主代理たる俺に決定権がある」  実際に交渉のためデルマリナ船を訪れたケアルは、ライス領のどの島がこの件に加担していたかまで知っている。 「ライス領主代理として俺は、デルマリナ船を襲った島人どもを裁かねばならん。なんといってもデルマリナは、これから先、色々と世話になったりなられたりせねばならん相手だ。少しでも弱味をみせれば、デルマリナの連中をつけあがらせることになる」  認めたくはないが、次兄の言葉は正しかった。父もまた、デルマリナとの交渉に優位性を保とうとしていた。 「きさまは今から、訴えてきたデルマリナ船へ行って、詳しい話を聞いてこい。そして、船の奪取に加担したライス領の島人がどいつかわかったら、そいつを処刑するんだ」 「おれが、ですか……?」  愕然として、次兄を見つめる。 「そうだ。首を刎ねるもよし、海に沈めてやるもよし。ああそういえば、なんでもデルマリナ船では、罪人は吊し首にするそうだな。島人どもをずらりと並べて、吊してやれ。そうすれば、デルマリナの連中も気がはれようというものだ」  なにがおかしいのか、次兄は腹を抱えてげらげらと笑った。追従するように、家令たちも下卑た笑い声をあげる。 「——兄上。しかし、マティン領が島人たちの罪をとわなかったのに、ライス領はかれらを処罰するとなっては、領民から不満の声があがるのではないでしょうか?」  申し出たケアルに、ミリオはますます笑い声を高くした。 「そうだな。けれどその不満は俺ではなく、島人どもを処刑したきさまに向けられるだろうよ。英俊との誉れも高い、弟よ。兄の身代わりとなれて、誇らしく思うがいい」 「兄上……」  憤りよりも強い悲しみが、ケアルを打ちのめした。自分はそこまで、この兄に嫌われていたのかと。 「ほら、さっさと行け!」  ミリオが犬でも追い払うかのように、しっしっとケアルに手を振る。家令たちと酒をくみ交わしはじめた次兄に頭をさげ、ケアルは逃げるように執務室を出た。  部屋にもどったケアルの青ざめた顔に、マリナもオジナも驚いて駆け寄った。 「どうなさったの? 真っ青よ」 「ミリオにまた、何か言われたのか?」  子供に対するような訊ねかたに、ケアルの表情もゆるんだ。  まずは、お茶を一杯マリナに注いでもらって飲みほすと、ケアルは先ほどの執務室でのできごとをふたりに打ち明けた。順を追って喋るうちに、身体が震えるほどの気持ちの昂《たか》ぶりが、次第におさまってくる。 「そんな……ひどいわ……!」  話し終えると、マリナが隠しきれない憤りに拳をにぎりしめてつぶやいた。 「あのミリオがね……。そうか、そこまできてしまったのか」  次兄とは付き合いのあったオジナは、憤りよりも悲しみが前面に出た表情で、胸をおさえ天を仰ぐ。 「それでもちろん、あなたはそんな命令にしたがうおつもりはないわよね?」  マリナの問いかけにケアルが答える前に、オジナが軽く片手をあげて遮った。 「いや、そうはいかないでしょう。仮にも領主代理の命令なんだから、それを故意にしたがわなかったとなれば、ケアルが背任の罪にとわれる。おそらくミリオは、弟が命令にしたがえば、ハイランド中にそれを公表して彼の評判をおとすことができるし、もししたがわなかったとしたら、今度こそ言いがかりではない確実な断罪ができると、そう考えているのでしょうね」 「じゃあ、どっちに転んでもケアルは咎められると、そうおっしゃるの?」 「ええ。世間から、あるいは領主代理であるミリオからね」  彼が悪いわけでもないのにオジナを睨みつけたマリナは、大きくみひらいた目をケアルに向けた。 「あなたは、どうするおつもりなの?」  ケアルはこめかみの部分を軽く揉《も》みながら瞑目し、しばらく考え込んだ。  次兄の考えはたぶん、オジナが予想した通りなのだろう。だが少なくともケアルは、自分の世間からの評判など、どうでもいいと思っている。侮蔑《ぶべつ》されることには慣れているし、謗《そし》られても構いはしない。しかし、だからといってデルマリナ船の占拠に加担した島人たちを処刑などするつもりもなかった。同じことをして、一方は罪をとわれることなく、だのに一方は死罪にされるというのでは、治世にあるべき公平さに欠ける。それにもしケアルが次兄の命令にしたがえば、最初に世間から悪評をうけるのはケアル個人ではあろうが、やがてはライス領へ批判の矛先《ほこさき》は向けられることになるだろう。  ケアルは目を開けると、ふたりを交互に見つめた。 「おれができるとしたら、ひとつしかないと思う」  息をつめて、ふたりがケアルを見返す。 「デルマリナ船に赴《おもむ》き、訴えをとりさげるように頼んでくる」 「無理よ、そんなこと!」  即座にマリナが反対した。 「だってデルマリナでは船が襲われた場合、たとえそれが一隻だけだとしても、デルマリナの総力をあげて報復するのが定法よ。水夫があやめられれば、手をくだした者の処刑と銀貨何千枚もの賠償金を求めるの。船がきずつけられたって、それは同じだわ。今回は船を乗っ取られたうえに、水夫たちは監禁までされたのでしょう? かれらにしてみれば、処刑を要求するのも賠償金を要求するのも当然の権利なのよ」 「けれど、他に方法はないよ」  ケアルもデルマリナの法は知っている。へたをすればまた、デルマリナはライス領やマティン領といった領単位ではなく、ハイランドへ向けて過大な要求をつきつけてくるに違いない。しかし、他に方法は思いつくことができなかった。  無言で飛行服を身につけはじめたケアルに、マリナは唇をかみしめながら手を貸した。最後にグローブを手に取ると、祈りをこめるようにそれを抱きしめ、ケアルに渡す。ケアルはマリナを抱き寄せ、白いその頬にくちづけた。 「行ってくるよ。夕食の時間にはちょっと、間に合わないかもしれないが」  珍しいケアルの軽口に、マリナは潤《うる》んだ目をして微笑んだ。  部屋を出ていくケアルの背中を、オジナが頑張れよとたたく。ああ、とケアルは笑みを浮かべてうなずいた。    * * *  ケアルが選んだ翼は、ライス家の紋章が入った機体だった。これは折り畳み式で、飛んで帰れなくなった場合も、舟に積み込むことができる。  船の甲板への着地は、これで三度目だ。困難ではあるが、ケアルの技量をもってすれば失敗することはまずない。  翼が船上に舞い降りると、すぐさま水夫たちがケアルに駆け寄ってきた。かれらの手には、棍棒《こんぼう》だのナイフだのの武器が握られている。一度は襲撃を受け、乗っ取られてしまったこともある船だ。水夫らの用心も、当然というものだろう。 「おれは、ライス領主が三男、ケアル・ライスという者だ。領主の命をうけて、話し合いに来た。船長あるいは船団長のもとへ、ご案内いただきたい」  ケアルが声をはりあげると、近づいてくる水夫たちの足が止まった。そして互いに顔を見合わせるかれらの間から、半白の髪の男がケアルの前へと進み出た。 「この船に、船団長はいません。船長でよければ、ご案内します」  この男は水夫頭だろうかと考えながら、ケアルは少し離れて停泊するもう一隻の船を指さした。 「では、あちらの船に船団長がいらっしゃるのですか?」 「いえ、船団長という役は設けていないんです。ご不満ですか?」  いささか喧嘩腰《けんかごし》ともいえる言いようだったが、ケアルは挑発されることもなく静かにかぶりをふる。 「そんなことはありません。代表のかたにお会いできれば、それでいいのです」 「では、こちらへ」  男が先にたち案内したのは、ケアルが前回この船を訪れたとき、船を占拠した島人たちに案内されたと同じ船尾にある一室だった。ただし扉を開けたとたん、以前と違って室内が几帳面《きちょうめん》なほど綺麗に整えられているのが見てとれた。 「だ……誰だっ!」  奥から、甲高い声が響いた。 「俺です。ライス領の使者だって方を連れてきました」 「な、なんでここへ連れてくるんだ!」 「なんでって、あんたがここにいるからですよ。さっき見張りが、なんか来たって叫んだとたん、甲板から逃げ出して船長室にこもってしまったんだから、連れてくるしかないでしょう?」  肩をすくめて、男が説明する。  なるほど、とケアルは内心で苦笑した。船長は臆病なたちらしい。船を襲われ監禁された経験が、ますますそれに拍車をかけているのだろう。 「ほら、出てきてくださいよ。俺はもう、行きますから」 「まっ、待てっ!」  奥の寝台がある小部屋から、ようやく船長が顔をだした。船乗りらしくない、青白い顔色の痩《や》せた男だ。 「おまえは、ここにいろ。おまえが連れてきたんだからな」 「はいはい、わかりました」  男がどうぞと、ケアルを室内に促した。  海図をひろげる卓をはさんで、ケアルは船長の正面に腰をおろした。水夫の男は、手もちぶさたな顔をして、酒瓶やグラスのならぶ戸棚に背中をもたせかけている。 「おれは、ライス領主の三男、ケアル・ライスと申します。本日は、船長がライス領主にお出しになった訴えの件で参りました」  ケアルが切り出すと、船長の肩がびくっと揺れた。 「船を占拠し、みなさんを監禁した者たちへの処罰と——それから、賠償金を求めていらっしゃるそうですが?」 「そ……そうだ、我々は被害者だ。我々の要求は、正当なものだ」  虚勢をはっているのはあきらかな表情で、船長は拳を卓にたたきつけた。 「我々の要求がのまれぬ場合は、デルマリナ議会がそれ相応の報復を行なうよう、決定するだろう」 「確か、海上封鎖とデルマリナに滞在する同国人の捕縛・処刑、が原則でしたね」  ケアルの応えに船長は、大きく目をみひらいた。 「な、なぜそれを……」 「おれは数ヶ月前まで、デルマリナに滞在していました。ピアズ・ダイクンどのの邸に、お世話になっていましたが——ピアズどのはご存知ですか?」 「そ、それはもう……!」  何度もうなずく船長に、ケアルはにっこりと微笑みかける。 「ピアズどのには親切にしていただき、父も感謝しております。デルマリナへお帰りになった際には、ケアル・ライスがそう言っていたと、よろしくお伝えください」 「わ……私などが、そんな簡単にお会いできる方では……」  船長は、もごもごと口ごもった。 「ところでこの船は、どなたの所有する船なのでしょうか?」  すかさず問いかけたケアルに船長は、聞いたことのない商人の名をあげた。  帆船を所有できる財力をもつのは、ほとんどが大アルテ商人たちだ。七万の市民を抱えるデルマリナを牛耳《ぎゅうじ》っているのは、この大アルテに属する三百人ほどの商人たちである。中でも大・小アルテの商人たちで構成される大評議会の、最高執行機関である総務会に名をつらねる五人の商人は、デルマリナの権力そのものといっていいだろう。マリナの父、ピアズ・ダイクンはその総務会の一員として辣腕をふるっている。  この船の持ち主は、少なくともその総務会に籍をおく商人ではない。マリナに聞けば、あるいは名を知っているかもしれないが。 「もう一隻の船もやはり、そのかたの所有なのですか?」  続いての問いには、違うと返ってきた。 「同じ日に、デルマリナを出航したというだけで……」  船主同士が手を結んだわけでもないという答えに、ケアルは軽く目をみひらいた。 「でしたら、ライス領に訴えを寄越したのはこの船だけなのですか? 確か、ライス領主のもとへ届いた訴えは、一通のみでした」 「いや、だからそれは……同じ被害にあったもの同士というわけで——」  しどろもどろになって言い訳する船長を、ケアルは軽く手をあげて黙らせる。 「それに、そもそも賠償金の要求や、犯人を処罰するように求めることができるのは、その船の持ち主であるはずです。あるいは、船主の訴えにより、デルマリナ議会が代行するべきものですよね?」 「そ……、それは、その……」  船長は助けをもとめるように、戸棚の前に立つ男に視線をやったが、彼は肩をすくめてみせただけだった。 「残念ながら我がライス領では、今回のあなたがたの訴えを聞き入れるわけにはいきません。理由は、いまご説明した通りです」  ケアルが告げると、船長はがばっとその場に立ちあがった。 「だ……っ、だめだ! このまま引きさがるわけにいくかっ!」 「どうなさるおつもりですか?」  頬を紅潮させて怒鳴る船長を、ケアルは冷静な目で見あげる。 「こっちの要求が聞き届けられんというなら、独自の報復を行なう用意がある!」 「どんな報復でしょう?」 「そ……、それは……」  もちろん用意などしているはずもない。問われて船長は、おし黙った。  ケアルは苦笑して船長を見やりながら、おもむろに立ちあがった。 「我々との話し合いは、決着したと思います。あとはむこうの船の船長と、善後策をお考えください」  これで失礼します、とケアルが頭をさげた瞬間、船長が怒鳴った。 「こいつを捕えろ! 船長命令だ!」  えっ? と顔をあげた視線の先で、船長がケアルを指さしていた。ケアルが抗議の言葉を口にする前に、戸棚の前に立っていた水夫が背後にまわった。  腕を背中にねじりあげられ、走った痛みに小さく呻く。痛みを訴える声には構わず、胸にまわった日|灼《や》けした腕が、ケアルの身体を絞めあげた。 「よし、よくやったぞ!」  船長は喝采《かっさい》をあげ、部下を褒《ほ》めた。 「褒めていただけるのは結構なんですがね、ひとつ訊いていいですか?」  ケアルの背後で水夫が、興奮ぎみの船長とはまったく逆の、どこか白けたような声で訊ねた。 「なんだ? 言っておくが、そいつを放したいという相談には耳を貸さんぞ」 「いえ、そんなんじゃありませんよ。ただ、彼を捕まえてどうしようってつもりなのか、訊いておきたいと思いましてね」 「そんなこと、決まっているだろうが!」  船長は水夫にむかって拳をふりあげた。 「そいつを人質にするんだ! そいつはライス領主の息子なんだ、人質にする価値は充分にあるぞ」  たとえケアルが人質となっても、現在ライス領主代理をつとめる次兄には、なんの痛痒《つうよう》も感じないだろう。ケアルにはわかりきったことだが、それがこの船長に通じるとも思えない。 「人質にして、どうするんです? 人質というからには、何か要求するんでしょう?」 「そ……、それはだな」  口ごもった船長に、水夫はケアルにだけわかるため息をついた。 「俺としては、人質をとるなんて犯罪には加担したくはないんですがね」 「犯罪ではないぞ! そもそも、そいつの仲間が我々の船を強奪し、我々を監禁したんだ。犯罪というなら、そいつらのほうじゃないか!」 「彼はべつに、仲間というわけじゃないでしょう?」 「な……仲間のようなものだ。連中もそいつも、同じライス領の人間だろうが」 「その伝でいけば、デルマリナで起こった犯罪はすべて、船長に関わりあることになりませんかね? 海賊の仲間、押し込み強盗の仲間、ケチな詐欺師の仲間——ってね」 「私がケチな詐欺師だと……っ?」  船長はぶるぶる震えて、水夫をにらみつけた。 「詐欺師だとは言ってませんよ。その仲間と申し上げてるだけです」 「同じことだっ!」  怒鳴った船長は、大きく肩で息をつく。  しばらく室内には、沈黙が流れた。ふと気がつけば、ケアルの腕をひねりあげる力がゆるんでいた。 「彼を人質にして、こちらの要求を飲ませたとしても、いいことなんかありませんよ。人質を解放したとたん、返り討ちにあうのがオチってもんです」 「解放しなければいいんだ」 「ってことは、まさかデルマリナまで連れて行くんですか?」  心底あきれかえったという声で、水夫が訊ねる。 「それじゃあ、人質じゃなくて、人《ひと》攫《さら》いってやつですよ。それに彼は、あのピアズさんの知り合いなんでしょう? ピアズさんに楯突《たてつ》いちゃ、この先、雇ってくれる船主なんかいなくなりますって」 「嘘かもしれん……」  弱々しくつぶやく声に「なんですって?」と、水夫が聞き返す。 「だから——そいつは嘘をついているかもしれん、と言ったんだ。ピアズさんの邸に滞在していたなんて、そんな話は……」 「俺は聞いたこと、ありますよ。顔は拝んじゃいないが、ハイランドからのお客人がピアズさんの邸に滞在してた、ってね。なんでも大勢の前で、さっき俺が見たみたいに空を飛んでみせたそうで」  船長は完全に沈黙した。肩をがっくりと落とし、力がぬけたように椅子に座りこむ。 「彼を放していいですかね、船長?」  水夫の問いかけに船長は、勝手にしろとばかり手を振った。 「すみませんでしたね。俺は水夫だから、船長命令には逆らえませんで」  水夫の謝罪の言葉に、自由になった腕を肩のところでぐるりと回しながら、ケアルは苦笑した。 「いいえ。お気になさらずに」  船長を説得してくれたのは、彼だ。かえって感謝したいぐらいである。だがもちろん、船長のいる前でそんなことは言えない。  ケアルは船長に歩み寄ると、紅潮から一転し青ざめたその顔をのぞきこんだ。 「我々は今回の訴えをのむわけにはいきませんが、だからといって何もするつもりはないというわけでもないんです。おれを人質にと考えられたほどですから、ひょっとして何かお困りのことがあるんじゃないですか?」  ゆるゆると船長が顔をあげた。 「力になれることでしたら、おっしゃってください」  何か言いたげに船長の唇が動いた。だが声にはならず、ふたたび目を伏せる。 「——水がないんですよ」  代わりに背後から声がした。振り返ると水夫が、ケアルを見つめている。 「水が……?」 「ここまで来るのに、予定してたよりずいぶんと日程がかさみましてね。このまんま戻っても、水を補給できる寄航地に着く前に、全員ひからびてしまうでしょうよ」 「余計なことを言うな!」  船長に怒鳴りつけられ、水夫は軽く両手をあげて「すみません」とつぶやいた。 「水はあと、どれぐらいあるんですか?」  ケアルの問いかけに、しばらく間をおいてから、 「十日はもたないでしょうな」  投げやりな口調で船長が答えた。  やはりしばらく考えたのち、ケアルは「わかりました」とうなずいた。 「水を補給できるよう手配します。ただし、幾らかの代価を支払っていただくことになると思いますが」  船長はぱっと視線をあげ、水夫と顔を見合わせた。そしてケアルに視線を移し、 「その……法外な値をつけられても、我々には——」 「だいじょうぶです。デルマリナで船積み用に売られている水の値段は知っています。それより安いことはあっても、高くなることはまずないと思います」  安易に請け合いすぎかとも思ったが、ここははったりをきかせて自信ありげに装ってみせた。あてが全くないわけではない。それに水を補給しなければ、船長や水夫ら全員の生命があやうい。わかっていて見捨てることなど、ケアルにはできなかった。 「お願いします……!」  いきなりケアルの手を握りしめると、船長は頭をさげた。 「水がなくなったら、我々は終わりだ。もし水を融通してもらえるなら、ご領主に出した訴えはとりさげてもいい。いや、とりさげさせてもらう」 「船長。あんたまだ、そんなこと言ってるんですか?」  あきれかえって、水夫が肩をすくめる。 「賠償金だの処罰だのを求めて、ご領主があわてて謝罪してきたら、ついでに水の補給もさせてやろうという腹だったんですよ、このひとは」 「喋りすぎだぞっ!」  またも船長に怒鳴られて、けれど水夫は少しもこたえていない様子で「すみません」と謝った。 「なにしろ、水が欲しいなんて願い出たら、足もとを見られるのは確実ですからね。それに我々も、怖いんですよ。弱味をみせたらまた船を乗っ取られて——今度こそ、殺されるんじゃないかってね」 「その点については、だいじょうぶです。安心してください」  ケアルが保証してみせると、水夫は笑みを浮かべてうなずいた。 「ええ、信用しますよ。あんたは、デルマリナにいたひとだから」  わずかに首を傾げ、ケアルは口の中で「デルマリナにいたひとだから」と、水夫の言葉を繰り返した。 (ああ、そうか……)  ハイランドの人々がデルマリナの船を怖れるのは、それが未知のものだからだ。自分たちの常識では考えられない巨大な船と、その船をつくり操縦できるデルマリナの人々が、わけのわからないものに思えるのだ。それと同じように、はるばるハイランドへやって来たかれらもまた、ここが未知の土地であり、デルマリナの常識が通じない相手だと、怖れているのである。  半年といえどもデルマリナにいたことがあるケアルは、かれらには同郷人も同然と思えるのだろう。 (おれ個人への信頼ではない、というわけだな……)  自分を戒めて、ケアルは水夫とともに船長室を出た。  船からいちばん近い島まで、小舟で移動したケアルは、翼の発着所からふたたび空へと飛びあがった。  ライス領の公館へ帰るのではない。マティン領とライス領の境近くにあるはずの島を目指した。デルマリナ船を奪取した島人たちの指導者、頬から首にかけてひきつれた火傷のあとがあるあの男に、ふたたび会うためである。  どこにあるかと、迷うことはなかった。ハイランドの領主たちがデルマリナに要求され、その島に港を建設すると決めたからだ。父がつくらせた詳しい地図で、ケアルはその島の位置と形を正確に見知っていた。  三百の島人が暮らす島というだけあって、他とくらべてもかなり大きな島だ。埠頭《ふとう》をつくるに適した充分な水深の入江が、島の最大の特徴だろう。上空から見おろした島の入江には、島人たちが漁に使う舟が十|艘《そう》以上ならんでいる。その入江にほど近い丘に、島人たちの家々が肩を寄せあうようにして建っていた。  ケアルが上空を旋回すると、それに気づいた者が仲間を呼び、家屋からどんどん島人たちが出てきて空をふり仰いだ。翼の発着所は、集落の裏手にある。ケアルは島人たちの注目する中、その発着所に降り立った。  ケアルを集落まで案内してくれたのは、見たおぼえのある若者だった。若者のほうはケアルの顔をしっかりおぼえていて、 「あんた、デルマリナの船に来たライス領の若さまだよな?」  会うなり、そう言った。 「俺たち、あんたが口利きしてくれたおかげで、おとがめなしで済んだんだって、ラキが言うんだ。ほんとなら、デルマリナの船を乗っ取った俺たちだけじゃなくて、親や兄弟まで死刑になってもおかしくなかったって」 「ラキ……? ああ、彼か」  頬から首にかけて火傷のあとがあるあの男の名は、確かラキ・プラムといった。 「だったらついでに、うちの島につくることになったって変なものも、やめてくれるように口利きしてもらやいいんだって、みんなで言ったんだけどさ。ラキは、そいつは望み過ぎってもんだって言うんだ」  そこで言葉を切って、若者はケアルの顔をのぞきこんだ。 「なあ、あんたライス領の若さまなんだろ。ラキは無理だなんて言ったけど、そんなことないよな?」 「残念だけど、それは領主同士の話し合いで決定済みなんだ。おれには、口出しすることもできないよ」  ケアルがかぶりをふると、若者はがっくり肩を落とした。 「そうか……。ちょっとは期待してたんだけどなぁ……」  案内された集落の入口では、百人に近い島人たちがケアルを出迎えた。そしてその先頭に立っていたのは、あのラキ・プラムだったのである。 「やっぱり、あんただと思った」  ラキはにやりと笑って、ケアルの肩をたたいた。 「若いやつが、翼に青い色の紋章みたいなもんが見えたって言うからさ。紋章つきの翼に乗れるような偉いやつが、前触れもなく島に来るなんてこた、まずねぇもんな。そんな酔狂なことすんのは、あんたぐらいだって思ったんだ」  その言いようにはケアルも苦笑するしかない。確かに、島を訪れる翼はたいてい伝令のもので、それはどの領も共通してなんの紋様もない真っ白な翼だった。 「あんたの口利きのおかげで、俺たちは助かった。あらためて礼を言うぜ」 「連絡が遅くなって、申し訳なかった」 「いや。あとで聞いたけど、あんたの兄貴は死んじまうし、親父は倒れたとかで、えらい騒ぎだったんだろ。だのに俺らのことは忘れなかった。それだけで充分ってもんだ」  ラキ・プラムの先導で、ケアルは集落でいちばん大きな家に案内された。 「俺ん家《ち》だ。たいした歓迎はできねぇが、適当に食って飲んでくれ」  彼の祖父と母親、それに八人の弟妹を紹介され、宴席の用意がなされた。近所の人々も酒や料理などを手に集まってきて、たちまち家は島の集会所と化してしまった。  ケアルはおおむね、島人たちに歓迎された。翼の発着所まで出迎えてくれた若者のように、この島に港を建設しないよう取り計らってくれないか、と言い出す者も多かったが、そのたびにラキが「無理を言うな」と横から口を出した。  ライス領にはないが、マティン領では島に長をおき、島人たちを束ねる制度がある。この島では最初に紹介されたラキの祖父が、長をつとめていた。だが高齢もあって、実質的に島人たちを束ねているのは孫のラキである。彼よりあきらかに年上の相手にも、ずけずけとものを言い、相手もまたラキにそうされて反発する様子もない。この島の人々にとって、彼は良い指導者なのだろう。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_083.jpg)入る]  頃合をみて、ケアルはラキを屋外へと連れ出した。ラキも予想するものがあったのだろう、なにも言わずケアルについて外へと出てくれた。  外はすっかりと日が暮れ、入江の波の少ない海面には、月や星の明かりが映えている。その光景はケアルに、デルマリナの運河を思い出させた。屋内から聞こえる、宴席に集う人々の笑い声や歌声も、デルマリナの夜に似ていた。もちろんデルマリナの賑やかさと華やかさは、この比ではないが。  入江の主のような大きな岩の横に立ち、ケアルはラキ・プラムを振り返った。 「——実は、頼みたいことがあって、この島へ来たんだ」 「だろうと思ったぜ」  月と星の明かりしかない薄闇の中、ラキの若さに似合わぬ半白の髪が浮かびあがって見える。 「あんたは、俺らの恩人だ。あんたの頼みならできるだけ聞いてやりたいけど、でも、デルマリナの船を乗っ取った犯人を突き出せなんてのは、さすがに聞けねぇぜ」 「いや、そのことはもういいんだ」 「だったら、なんだよ?」  ケアルは彼に、デルマリナ船がライス領主に宛てて、賠償金と船の乗っ取り犯を処刑しろと求めてきた話をした。そして自分が、領主代理の命をうけ、ライス領側の島人を処罰するため赴いたことも。 「するってぇと、俺らは罪にとわれなかったけど、俺らに協力してくれたライス領のやつらは死刑になるってのか?」  憤りに肩を怒らせて、ラキはケアルに詰め寄った。 「ライス領とマティン領では対応が違っていても、べつに不思議はないんだ。でもおれは、かれらを処罰するつもりはない」 「だったら、どうするんだよ」  続いてケアルは、デルマリナ船であった話をした。デルマリナの法律やピアズ・ダイクンのことなどはできるだけ省いて、かれらが帰るに帰れないでいることを強調した。 「なんでやつらは、帰れないんだ?」 「水が、もうないそうだ」 「水って……飲む水がか?」 「ああ。水を補給できる港まで、一ヶ月近くかかる。でも水の残りは、あと十日ともたないだろうと言っていた」  ケアルの説明にラキは、声をあげて笑い飛ばした。 「そんなもの、自業自得ってやつじゃないのか。やつらが飢えようが渇こうが、俺らの知ったことじゃねぇさ」  言い放った彼をケアルは、責める気にはなれなかった。ラキはかれらを、デルマリナという大きな括りでしか見られないのは当然だ。そしてラキたち島人にとって、デルマリナは自分たちの生活を侵害する敵なのだ。 「水がなくなれば、かれらは死ぬしかない。デルマリナではかれらの親や兄弟、妻や子が、かれらの帰りを待っている。乗組員が死んでしまった船は海を漂流し、決してデルマリナへ帰り着くことはないだろう。かれらの身内はいつまでも、息子や夫の帰りを待ち続けることになる」  半白の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜて、ラキは舌打ちした。 「あんた、嫌なこと言うなぁ。そんな言われかたされたら、寝覚めが悪くなるぜ」  ラキの言葉に、ケアルは苦笑した。 「わかったよ。あんたの頼みってのはつまり、連中に水をめぐんでやれってんだろ。それが俺らを助けてくれた交換条件なんだな」 「いや。めぐんでやれ、とは言わないよ。かれらは水を買うと言っている」 「水を買う、だって……?」  薄闇の中でも、ラキが目を丸くしたのがわかった。それも当然だろう。このハイランドで、水を売買する者はいない。  どこの島にも井戸や泉があり、その島の住民はだれでもそこから自由に水を汲むことができる。島では、井戸や泉が涸《か》れるほど大量に水を必要とすることなどない。井戸を掘るのは骨がおれるが、掘られた井戸は島の共有財産となるのだ。だれかが独占することもない。 「デルマリナでは、井戸が掘れるのは裕福な商人だけなんだ。井戸は個人のもので、よその人間がそこから水を汲むと、水泥棒だと処罰される。市内には雨水を溜めた貯水槽があって、水を買う余裕がない人々は、あまりきれいとは言えないその水を、飲み水にしているんだよ」  理解できないだろう彼のために、ケアルはできるだけわかりやすく説明した。 「船の場合だと、できるだけきれいな水が何十樽も必要になる。水は放っておくと、腐るからね。デルマリナでは、多いときには一日に十隻ぐらいの船が出航していく。その全部に、何十樽もの水が要るんだ」 「そいつは……すげぇな。水が売り物になるのか……」  ラキはひどく興味をひかれた様子で、腕を組み考えこんだ。 「もし……もしもだぜ、俺らが水を売ってやったとしたら、やつらは何で支払ってくれるんだ?」 「たぶん、銀貨だね」 「銀貨っ? そいつはすげぇや」  ひゅっと口笛を吹いて、ラキは両手をひろげた。  見たところ、この島には特産物らしいものがない。現金収入源があるとしてもおそらく、どこの島でもやっている籠や石の細工もの、海産物を加工したもの程度だろう。けれどそれではどんなに頑張っても、銀貨を得られるほどの収入にはならない。 「いま言ったように、水はかなりの量が必要だと思う。次の補給地までもてばいいとしても、二隻の船だから何十樽、ひょっとすると百を超える樽ぶんの水が要る。それをこの島だけで賄《まかな》うのは、難しいかもしれない」 「そんなもん、俺がひと声かけりゃ、水を売ろうって島はいっぱいあるさ」  自信ありげに応えたラキに、ケアルはうなずいた。きっとそうだと思ったから、彼に頼みに来たのだ。 「——では、かれらに水を売ってくれるんだね?」 「まあな。そこらに湧《わ》いて出てくる水で銀貨がもらえるってなら、うちの島の連中も反対はしねぇだろうさ」  でも、とラキは薄闇ごしに、うかがうような視線を向けた。 「なんであんた、俺にその話をもってきたんだ? 領主の坊ちゃんだったら、ライス領の島人に命令すりゃ、わざわざ俺なんかに頭をさげなくても、すぐにカタはついたんじゃねぇのか?」 「簡単な話だよ」  ケアルは苦笑して、ラキを見返す。 「一部の人々をのぞいて、ほとんどの領民はデルマリナの船を恐れている。ライス領に限ったことじゃなくて、マティン領でもそれは同じだろう?」 「ああ。うちの島でも、女子供はやっぱりまだ、船が見えると震えあがってるぜ」 「でも、きみたちはデルマリナ船を占拠したぐらいだ。怖くて近づくこともできない、なんてことはないだろう?」  ケアルの問いかけに、ラキは夜目にも白い歯をみせて笑った。 「なるほど、わかったぜ。水を売るには、船に運ばなきゃならないもんな。そこらの臆病な島人じゃ、んなことできやしねぇ」 「そういうことだよ」  話は決まった。  早速、仲間たちに事の次第を話しに戻っていくラキの背中を見送って、ケアルは夜空を見あげた。 (そうだ、茶葉だけじゃないな……)  港ができれば、多くの船が来る。水や食料の補給も必要となるだろうし、長い航海で疲れた水夫たちは、久しぶりに揺れていない地面の上で休みたいとも思うだろう。 (宿屋や食堂、酒場や……それに、荷積み人夫も必要になる)  それらすべてが、領民たちにとって現金収入の種となるのだ。 (他に、なにができるだろう?)  もっともっと多くの可能性が、そこには秘められているような気がする。星空を見あげながらそう考えたケアルは、全身が鳥肌立つのを感じたのだった。      2  ラキ・プラムは島人たちを指揮し、あざやかな手際で水樽を船に積み込んだ。  今回の水売りに関わった島は、三つ。うちひとつは、ライス領内にある島である。ラキは代表して受け取った水の代金を、水を運ぶ作業にたずさわった人数で割って、三つの島に分配した。  水の補給を終えた船は、しかしケアルの予想とは異なり、すぐにデルマリナへ戻ろうとしなかった。 「ここの領の公館とやらから何度か使者が来たんですが、領主に会いたいと要求しても、いつも断られるんですよ」  船長はケアルを、ちょうどいい仲介役と考えたようだ。一日で水を調達してきた実行力はすばらしいし、ライス領主の息子であることから他領の領主たちとの顔つなぎもできるだろう。またなによりも、以前デルマリナを訪れた経験があるから、デルマリナの習慣や考え方にも通じている。そのうえ、あのピアズ・ダイクンと親しいらしいとあっては、漂流者が大海原で通りかかった船を見つけたに等しい。 「マティン領主に、ですか? それはちょっと難しいというか、無理というか……」  仲介役とされたケアルのほうは、たまったものではない。残念ながらまだどの領も、デルマリナ船を歓迎できる状態には到っていないのだ。仲介役などした日には、ライス領が厄介ものを押し付けてきたと思われるのがおちだろう。 「無理とは、どういうことだ? 我々では、領主に面会するには役不足だとでも言いたいのか?」 「そうじゃありません」  あわててケアルは、かぶりをふった。 「他領の内政に関することなので、詳しくは言えませんが、現在マティン領に領主はいないのです。前領主が亡くなり、まだ新しい領主は即位していないので」  何度もマティン領の使者とやりとりを交わしながら、かれらはそれに気づいてもいなかったらしい。  ケアルの言葉に船長は、目を丸くした。 「なんだ……そうだったんですか。いや、それならそうと言ってくれればいいのに」  いまだ領主が立っていないのは、マティン領にとってみれば恥ともいえることである。他国の人間に、わざわざ恥を申し出る者などいないだろう。 「だったら、仕方ないですな。じゃあ……そうだ、ライス領主との面会を願いたい」 「残念ながら、それも無理です」  ケアルの返答に、船長はむっと唇をへし曲げた。 「なんですと……? まさかまた、領主がいないとは言わせませんぞ。あんたは我々の船に来たとき、ライス領主の命をうけて来たと言ったはずだ」 「実は正確には�ライス領主代理の命をうけて�と言うべきでした。その点については、謝罪します。しかしあの場で、領主本人ではなく、なぜ代理なのか説明するのは難しいと考えたものですから」  素直にケアルが頭をさげると、船長もそれ以上は責めることなどできはしない。 「父は現在、臥《ふ》せっております。申し訳ありませんが、とてもお客さまと面会できる状態ではありません」 「だったら……それなら、代理でもいい」  溺《おぼ》れる者は藁をも掴むといった様子で、船長はいきなりケアルの手を握りしめた。 「領主に面会もできなかったでは、我々はデルマリナには帰れません。船主になんと言い訳していいか……」  なるほど、そういうことか。ケアルは得心し、うなずいてみせる。 「現在ライス領では、兄が領主代理をつとめています。兄に、あなたが面会を希望している、と伝えましょう」  ただし、とケアルは付け加えた。 「兄が必ず了承するとは、保証することはできません。兄はあくまでも、代理にすぎませんので」  そう告げながら、もしこの言葉を聞いたら次兄は眉を吊りあげ怒るだろう、とケアルは思った。代理にすぎない自分を、いちばん腹立たしく感じているのは、おそらく次兄自身である。  次兄を見ていると、父がもう領主に復帰することはないだろうと考えているような気もする。ケアル自身もまた、父の回復を心から望みつつも、どこかでそれを諦《あきら》めている自分がいる。とはいえ、それでもまだ父の存在は次兄の上にもケアルの上にも大きい。たとえ寝床から起きあがれず、そばに誰がいるかもわからない状態であっても、父はやはりライス領主なのだ。  水売りの仲介役をしてくれた礼に、宴席を用意するというラキ・プラムの誘いを断り、大勢の島人たちの見送りをうけて、ケアルは島を飛び立った。  眼下ではデルマリナ船が展帆し、動きだそうとしていた。かれらはケアルの、一ヶ所に停泊せず毎日移動したほうがいいという助言を聞き入れ、ライス領とマティン領の境を行き来することになっている。  海面に白い航跡を残して進む二隻の帆船を視界の隅におさめ、ケアルは上昇気流をつかまえると、空の高みに舞い上がった。風に身体をさらし、激しい風切り音を聞くと、全身が産毛ひとすじまで活性化するような気がする。公館へ戻らねばならないことを考えると気は重かったが、身体のほうは重力などまるで感じていないかのように、飛ぶことを楽しんでいるのだ。  青空を切り裂いて、速度をあげる。眼下の島々が、あっという間に近づき、みるみるうちに遠ざかる。飛ぶときにはよく道標としている、特徴ある長靴形の小島の上で、翼をやや右へ傾け旋回したケアルは、そのときいきなり視界に入ったものに、操縦を誤りかけたほど驚いた。  手をのばせば届くのではと思えるほど間近に、巨大な鳥が飛んでいたのだ。 (全然、気がつかなかった……!)  力強い真っ白な羽根に、頭頂部だけ赤い首をすんなりとのばした、美しい鳥。めったに人里には近づかず、間近にそれを目にした者もほとんどいない、伝説の鳥。 「ゴラン……」  口の中でつぶやいて、ケアルはぶるっと身体を震わせた。  前にいちどだけ、これぐらい近くでゴランを見たことがある。あれは確か、ハイランドに初めて三隻のデルマリナ船があらわれた日だった。思えばあのときから、色々なものが変わりはじめたような気がする。巨大な扉が開き、見たこともないものがケアルに向かって押し寄せてきたような……。  じっと見つめるケアルの前で、ゴランは赤い目をこちらへ向けた。ケアルにはそれが、もの言いたげな目に思えた。 (なんだ……? なにか伝えたいのか?)  全身の毛穴が、きゅっと閉まる。血液がこれまでの何倍もの早さで、ケアルの体内を駆け巡る。  ゴランの白い羽根がゆらゆらと揺れた。優美な首がのび、ゴランの赤い目がはるか上空へと向けられる。つられてケアルも上空へ視線を移した瞬間、しゅんっと風が跳ねた。 「えっ? あ……っ!」  白い巨体が、羽毛のような軽さで上空へ駆けのぼっていった。追いかけることもできそうにない、俊敏さと速さだった。たちまち遠ざかり白い点になっていくゴランの後ろ姿を、ケアルは呆然と見送った。 (なんだったんだろう……?)  決して人里には近づかない、人には馴れない伝説の鳥、ゴラン。群れで行動することはなく、我こそ空の王者だといわんばかりに悠々と空を行く。それがなぜケアルに近づき、あまつさえわずかな間ながら、ともに翼を並べて飛んだのだろう。  吉兆とも凶兆ともつかぬ予感に身を震わせて、ケアルは操縦桿を握りなおした。    * * *  公館の前庭に降り立ったケアルは、走り出てきた家令にあとを任せ、建物の中に足を運んだ。まずは次兄に事の経緯を報告し、デルマリナ船の要求を伝えねばならない。  目の前を通りかかった若い家令に、 「兄上は、どちらに?」  訊ねると彼は、申し訳ありませんと頭をさげた。 「急ぎ決裁いただきたい件があり、私もミリオさまをお捜ししているのですが、執務室にはいらっしゃいませんでした」  では、自分の居室かもしれない。ケアルは踵をかえすと、右翼の館へ向かった。  いまは病室となった父の居室は、この右翼の一階にある。次兄の居室と、もう亡い長兄が寝起きしていた部屋は、父の部屋のちょうど真上、二階にあった。階段をのぼろうとしたケアルは、突然耳に飛び込んできた声に、はっとして足をとめた。 「父上……っ!」  次兄の声だ。父の病室があるほうから聞こえた。 「ロト・ライスさま! ご領主さま!」  だれかの叫ぶ声。そして、嗚咽《おえつ》。  すぐさまケアルは、父の病室へと走った。全身の毛穴から、どっと汗が吹き出す。  病室の扉は開け放たれ、古参の家令の姿が扉近くにあった。かれらに混じってマリナの姿を見つけ、駆け寄る。ケアルに気づいたマリナがこちらを見て、黒い目から涙をこぼした。 「ケアル、お父さまが……」  すべてを悟って、ケアルは病室に足を踏み入れた。父が横たわる寝台のまわりには、三人の医師と次兄がいる。次兄は寝台の横に跪き、俯《うつむ》いて唇を噛みしめていた。 「兄上、父上は……?」  乾いてからからになった喉から、ケアルは声をしぼりだした。次兄はゆっくりと顔をあげ、弟を振り返る。強張り、青ざめたその顔に表情はなかった。 「ご領主さまは——たったいま、お亡くなりになりました」  次兄に代わり、老いた医師が頭《こうべ》を垂《た》れて告げた。 「昼をすぎて容態が急変しまして……。安らかな最期でした。お苦しみにならなかったことだけが幸いでしょう」  よろよろとケアルは寝台に近づいた。雲の上でも歩いているかのように、足もとがひどくたよりない。  寝台に横たわる父の顔は、ケアルが最後に見たときと変わりなかった。亡くなったと聞かされなければ、ただ眠り続けているだけのように思える。 「ち……父上?」  呼びかけながら手をのばし、父のこけた頬に触れた。まだ暖かい。いまにも目を開き、早く報告を聞かせろと命令しそうだった。けれど父が目を開くことは、もう二度とないのだ。  手足が、がくがくと震えた。全身から力がぬけ、ケアルはその場にへたりこんだ。泣きたいのに、涙が出てこない。叫びたいのに、声さえも出ない。 (どうして……なんで、父上が……!)  今日逝ってしまうと知っていたら、もっと早く帰ってきたのに。いや、帰れなくても、もっと強く父の回復を祈っただろうに。すべてを投げ出してでも、すべての時間をつかっても、祈り続けただろうに。  おれは何もできなかった。いや、何もしなかったのだ。看病は医師たちに任せて、公館にいるときだけ日に三度、病室に立ち寄って父の顔をながめていただけだ。心のどこかで、父が回復することはないだろうとさえ思っていたのだ。 「ち……ちうえっ!」  胸に溜った空気をすべて吐き出すように、ケアルは叫んだ。膝頭を力の限り掴みしめて、言葉にならぬ声をあげた。    * * *  肩をたたかれ、ケアルはぼんやりと振り返った。 「ケアル、これを——なにか食べないと身体に悪いわ」  マリナが軽食を乗せた銀の盆を掲げ、気遣わしげにケアルの顔をのぞきこむ。 「あ……、ああ」  気がつけばあたりは暗く、部屋にはケアルとマリナの他は、寝台に横たわる父の遺骸があるだけだった。一瞬、次兄はどこへ行ったのだろうかと考えたが、その疑問はすぐに霧散した。ものを考えられないのだ。考えようと思うと、すぐ頭の中は霧がかかったようになり、いつしかぼんやりとなにもない宙をながめている。  マリナが静かに動いて、ケアルの膝に布巾《ふきん》を広げ、スープの入った器を手に持たせてくれた。すすめられるまま匙《さじ》を持ち、スープを口にしようとしたのだが、ケアルは匙を器に突っ込んだまま、またぼんやりと宙をながめていた。 「ケアル、ケアル」 「あ……ああ、ごめん」  ふたたび匙を持ち直し、ひとくちだけスープをすすって、ケアルは「ごめん」と謝った。美味しいスープだろうに、まったく味がしない。熱いのか冷たいのかさえわからない。なにより、スープが喉のところにひっかかって腹のほうへ落ちていかないのだ。 「食べられそうにないの? 無理しても食べなきゃだめよ」 「うん。わかってるんだけどね……」  ごめん、と繰り返すケアルを、彼女は痛ましそうな目でながめ、かぶりをふった。 「そんなに謝らなくてもいいのよ。食べられなくても仕方ないんですもの」  そう言うとマリナは、ゆっくりと静かに器を片付けた。 「なんだかね、不思議なんだ」  マリナが立ち働く姿をぼんやりながめながら、ケアルは彼女に言うともなく話しかける。 「悲しいはずなのに、涙が出ない。胸がつぶれるほど悲しいはずなのに、悲しいことも忘れて、ぼんやりしてしまうんだ」  いや、自分は本当に心の底から悲しんでいるのかとすら思うのだ。ひょっとすると、悲しいはずだと思いこんでいるだけではないのか。  五歳のとき母を亡くした悲しみは、いまもはっきり覚えている。肉親を、いつもそばにいて庇護してくれる者を亡くした幼い者が抱く悲しみそのものだったからだ。だが父の存在は母とはまったく質を異にする。父はケアルにとって、母ほど近しい存在ではなかった。彼は父である前に、ライス領を治める領主だったのである。  ではこの喪失感は、領主をうしなった領民たちと同種のものなのだろうか? それも違う、とケアルは思った。肉親を亡くしたというよりも、まるで長い旅の途中で道を見失ってしまったような、この感覚。これを悲しみと呼んでいいものなのか。 「おれは本当に——悲しんでいるのかな……?」  呆然としてつぶやいたケアルに、マリナはひっそりと微笑みながら彼の赤い髪を撫でた。我が子を寝かしつける母親のような優しい手つきで、何度も何度も撫でる。 「悲しみが過ぎると、泣くこともできなくなるって、聞いたことがあるわ。悲しいときや辛いとき、大声で泣いたほうが楽なんですって。あなたはきっと、お父さまを亡くしたのにご自分が楽になるのは嫌だと、心の底のほうで思っているんだわ」 「そうなのかな……?」 「ええ。きっとそうよ」  マリナにそう言われると、重かった心が少しだけ軽くなる。 「あら、だれかしら?」  ふいにマリナがつぶやき、ケアルの髪を撫でる手を止めた。燭台《しょくだい》の灯りが、どこからか入り込んだ空気の流れに、じりじりと音をたてて揺れる。 「——お悲しみのところを、申し訳ありません。少しよろしいでしょうか?」  振り返ると、扉のところに古参の家令が四人、腰を低くして立っていた。  マリナが「どうします?」と目顔で訊ねる。まさか、追い返すわけにはいかない。ケアルは強張りついた手足を叱咤《しった》し、立ちあがって家令たちを迎え入れた。 「まずは、お悔やみ申し上げます」  深々と頭をさげられ、ケアルも頭をさげかえす。四人とも亡くなった父よりも年上の、公館勤めも四十年から五十年にもなる家令たちだ。 「まさかロト・ライスさまが、我々よりも早く逝ってしまわれるとは……」 「怪我を負われ、覚悟はしておりましたが。いざこうなってしまうと、私の覚悟など覚悟と言えるものではなかったとわかります」  家令たちは口々に悔やみの言葉をのべ、ケアルに続いてロト・ライスの遺体に深々と頭をさげた。 「実は、こうして老いぼれが四人そろって雁首《がんくび》を並べましたのも、ケアルさまにお話を聞いていただきたいと思ったからです」  しばらくロト・ライスの思い出話をしたあと、家令のひとりが切り出した。 「ケアルさまは、最近のミリオさまの行状をご存知でしょうか?」 「行状、というと……?」  ケアルが首を傾《かし》げると、家令たちは一斉に身を乗り出した。 「執務室で若い家令たちと、毎日のように酒盛りをしておいでです」 「それも、昼間からですぞ」 「先日などは、街の遊び女を執務室に連れ込んで——」 「我々が諫言《かんげん》申し上げても、聞いてはくださらぬ。それどころか、何度もお諫《いさ》めした家令を怒鳴りつけ、職を解いてしまわれた」 「ご自分の近くには、ミリオさまにおもねるしか能のない若い家令のみを置いて……」 「政務は滞るばかりです」  切々と訴える老人たちの話を聞きながら、ケアルは困惑の眼差しをマリナへ送った。ちゃんと聞いてさしあげて、とマリナが軽く眉根を寄せ、目顔で伝えてくる。 「政務の滞りはもう、目を覆わんばかりのありさまでして」 「しかし兄上は、これまで領主の代理でしかなかったわけですから。重要な案件を、兄上のご判断で勝手に決裁するわけにはいかなかったのではないですか?」  ケアルが訊ねると、老人たちは揃《そろ》って首をふった。 「重要な案件だけなら、そうと言えましょう。しかし滞《とどこお》っているのは、すべての政務なのですぞ」 「例えば——ある島から、翼の発着施設が老朽化し、伝令がやって来ても降りられない状態となった、との訴えがありました。施設の改修は、ご領主の許可なくてはできません。ミリオさまが許可書に署名するだけで、島人どもは改修工事を始めるでしょう」 「だのにミリオさまは、もう半月も放っておかれて。何度申し上げても、耳を貸そうともしてくださらん」  なるほど、それは言い訳もできないなとケアルはうなずいた。 「しかし……兄上も、肩書きから代理の文字が取れ正式に領主となられれば、自覚もされて政務に励《はげ》まれるようになるのでは?」 「そうあってほしい、とは思っています」  渋面《じゅうめん》をつくりながら、老人たちもうなずいてみせる。 「けれど、逆にタガがはずれてしまう、という可能性もあります。これまでは、ロト・ライスさまが後ろに控えておられ、自制されていたものが、解き放たれてしまうのではなかろうかと」 「ミリオさまは、とかく楽なほうへ、ご自分の都合のいいほうへと流されやすいご気性をなさっております」  その言葉にケアルが表情を険しくすると、老人たちはあわてて、 「いやいや、言葉が過ぎましたか」 「しかしそれも、ライス領の未来を思ってのこと」 「老いたりといえど、憂国《ゆうこく》の思いは他のだれよりも強いのです」  胸に手を当て訴える老家令たちをぐるりと見やって、ケアルは座り直した。 「——それで。結局は、なにがおっしゃりたいのですか? このおれに、兄上に諫言申し上げろとでも?」  そんなことを頼んでも無駄だぞ、と言外に匂わしつつ訊ねる。  老人たちは、互いに顔を見合わせた。そしてうなずき合うと、最も高齢な家令が静かに一歩すすみ出る。 「我々はケアルさまに、次期領主として立っていただきたいと望んでおります」 「なんだって……?」  ぎょっとしてケアルは、思ってもみなかったことを言い出した老家令を見つめた。 「ロト・ライスさまは、セシルさまを次期領主と定めておいででした。しかしセシルさま亡きあと、どなたを後継者とするかは言明されておりません」 「ミリオ兄上に決まってる」  すぐさまケアルは言い切った。  かれらにこれ以上、この話をさせてはならない。その話は、した者も聞いた者も、どちらの立場をもあやうくする。 「そんな話がしたいなら、おれはもう聞く耳は持たない。いまの言葉は、聞かなかったことにする。だから今すぐ、ここから立ち去れ!」  言い放ち、ケアルは扉を指さす。しかし老人たちは、微動だにしなかった。 「お咎《とが》めをうけるのは、覚悟のうえです」 「我々は先も短い年寄りです。たとえケアルさまが我々をミリオさまに突き出そうと、構いはしません」 「われら全員、ここへは身辺を整理してやって参りました」  決意のかたさを訴える老人たちに、ケアルは「だめだ!」と繰り返す。 「おまえたちがよくても、おまえたちには家族があるだろう! 妻や子や孫が!」  もし領主への反逆の罪にとわれれば、本人たちだけでなく、その家族へも咎《とが》が及ぶ。 「私の老妻は、納得してくれました」 「わしは妻にも先立たれ、子も孫もおりません」 「ここにいる四人は、そんな者だけです」  静かにそう告げた老人たちに、ケアルは顔を両手で覆って、小さく首をふった。 「こんな年寄りの身を気遣ってくださって、ありがたく思います」 「わしらばかりでなく、家族のことまで思ってくださって……」 「やはり、ケアルさまだ。ケアルさまにこそ次期領主として立っていただくべきだ」  かえって老家令たちは、ますます決意をかためた様子だった。 「冗談じゃないぞ! 買い被《かぶ》りもいいところだ!」  片手で空気をなぎ払い、ケアルは老人たちを睨みつける。 「おれのどこが、領主の器だと言うんだ。そんな大役を、このおれが果たせるだろうと思うなんて、頭がおかしいとしか考えられないぞ」  いえいえ、と老人たちは互いに顔を見合わせながら微笑んだ。 「ケアルさまはすでに立派に、領主がやるべき責務を果しておられます」 「デルマリナとの交渉しかり、領民たちの保護しかり、他領との話し合いしかり」 「ライス領を考え、領民のためを考え、はてはこの五領すべての利益を考えていらっしゃる」  それは違うぞ、とケアルは首をふる。 「おれが領民たちのことやハイランドの利益を考えるのは、おれに使命を与えてくださった父上や兄上が、そう命じたからだ」  デルマリナへ赴《おもむ》いたときも、父がライス領主の代行という使命を与えてくれたからこそ、代表者にふさわしい言動とはどうあるべきかを考えたのだ。故郷に帰ってからも、デルマリナとハイランドの両方を知る唯一の者としての立場をもとめられたからこそ、父や兄の手助けをしてきた。 「おれにできるのは、父上や兄上の手伝いをすることだけだ。あなたたちは、おれがやったことの表面上だけしか見ていない。おれを褒めてくれるなら、それを命じた父上や兄上こそが素晴しい統治者だと認識すべきだ」  言い切ったケアルの隣で、それまで静かに話を聞いていただけのマリナが、くすくすと笑いだした。 「——マリナ!」  顔をしかめてたしなめると、彼女は事の重大さも知らぬげに、ぺろっと舌を出す。 「わたくしに言わせれば、表面上だけしか見ていないのは、あなたのほうだと思うわ」 「どういう意味だ?」  険しい表情のケアルに臆しもせず、マリナはにっこりと笑う。 「人間って、他人のことははっきり見えても自分のことは見えないものなのね」  そう思いませんこと? と老家令たちに視線を向けた。老人たちが応えに困って顔を見合わせると、マリナは「ちょっとお待ちになって」と言い置いて、部屋を出ていった。頑固《がんこ》な老人たちと残されたケアルは腕を組み、憮然《ぶぜん》として前方を睨みつける。  すぐに戻ってきたマリナは、銀の盆に五つの茶器を乗せていた。 「部屋の外には、だれもいないわ。廊下にも階段にも、お隣の部屋にもね」  そう告げるとマリナは老人たちに椅子をすすめ、全員にお茶をふるまった。 「お茶を飲んで、気持ちを落ち着けてくださいな。亡くなったとはいえ、ここがご領主さまの前だということを忘れずにね」  マリナの言葉にケアルは、はっとして寝台に横たわる遺体に目をやった。 「ああ……そうだね」  一時ではあるが、老家令たちの言葉に我を忘れてしまっていた。父は一見、独善的な領主と思われがちだったが、家令たち、特に経験豊かな古参の家令たちの意見には、必ず耳を傾けた。聞くべき意味のない意見はない、というのが父の信条であった。  ほんのり甘い香りのお茶は、老家令たちも気に入ったようだ。ひとくち飲んで、器の中をしげしげとのぞきこみ、これまで知っているどのお茶とも違うと目を丸くしている。マリナがにこやかな笑顔で、茶葉の加工方法やお茶の美味しいいれかたについて、老人たちに説明をはじめた。老人たちは初めて教えをうける幼い生徒のようにかしこまり、マリナの説明を聞いている。  お茶の話が一段落したところで、ケアルは老家令たちと向かい合った。 「——みなさんのお話は、わかりました」  ケアルがまず最初にそう告げると、家令たちは目を輝かせた。だがケアルは「では」と身を乗り出した相手に、手のひらを向けて制止すると、 「ひとつお聞きしたいのですが、よろしいですか?」 「なんなりと」 「先ほどみなさんは、ライス領の未来を思って、憂国の思いはだれよりも強い、とおっしゃいました。おれが立つことが、ライス領の未来のためだと、本当にお考えですか?」 「それはもう、当然です」  四人が四人とも、何度もうなずく。 「本当にそうでしょうか?」  今度はケアルが身を乗り出し、老家令たちを順に見つめた。 「マティン領は現在、二派に分かれて激しく争っています。それぞれの派には、ライス領とギリ領が後ろだてとなり、領内は混迷をきわめているといっていいでしょう」 「あそこは、家令どもが私欲に走って見苦しいと、常々思っておりました」  自分たちはかれらとは違うのだと、言いたいのだろう。 「私欲であろうが憂国の思いであろうが、領民たちにとっては変わりありません」  政務をつかさどる公館が乱れれば、そのとばっちりをくうのは領民たちだ。政務は滞り、領主の庇護《ひご》も期待できない。たとえば今回、デルマリナの要求により港を建設しなければならなくなって、領主たちは領主不在であることを幸いに、マティン領を港の建設予定地に決めた。そうなって、ラキ・プラムらはデルマリナ船を占拠する以外に、自分たちの島と漁場を守る手段を持たなかったのだ。 「それだけではありません」  ケアルは軽く瞑目し、膝頭をぎゅっとつかんだ。 「おそらくことは、ライス領内だけにとどまらなくなるでしょう。この機会を、あのギリ老が逃すはずがありません。ギリ領の介入はまず、避けられないと考えてください」 「ギリ老が……?」  そんなことなど考えてもみなかった、といった表情で老家令たちは互いに顔を見合わせた。 「しかしギリ老は、ことのほかケアルさまを気に入っていらっしゃいます。まさか、ライス領を喰いものにするようなまねは、なさいませんでしょう?」  おそるおそる訊ねてきた老人に、ケアルは肩をすくめてみせる。 「マティン領主の座を争っている家令は、ギリ老の妹婿ですよ。あの老人には、そんなことなど考慮の対象になりません」 「けれど……」 「そもそも、ギリ老はおれを気に入ってくださっていると言うが、おれにはあの老人が、ライス領に内紛を起こしたいがために、ことさらそんな態度をとってみせているように思えてなりません」 「まさか、そんな……」 「ギリ老はもうずいぶん以前から、ライス領主が床に臥し回復の見込みも少ないと、ご存知だったようですよ」  老人たちの顔が、みるみるうちに強張っていく。 「それはやはり、ミリオさまがご自分の名で葬儀の知らせなど出したからでは?」 「——かもしれません。が、たとえそれがなくとも早晩のうちに、ギリ老はライス領主の情報を得ていたにちがいありません」  言いながらケアルは、ゆっくりと椅子から立ちあがった。 「父上がお元気だったら、きっとこう言ったでしょう——そんなくだらぬことに頭を使うぐらいなら、今やるべきことに力を尽せ、とね」  おお、と老家令のひとりがつぶやいた。ケアルを見つめる老人たちの目から、涙がこぼれ落ちる。 「ロト・ライスさま……!」 「お父上さまのお若いころに、そっくりでいらっしゃる」  感動に震えながらケアルを見あげる老人たちに、苦々しい思いがこみあげてくるのを禁じえなかった。  少し前まで、ケアル・ライス家の恥部であると公然と言い放ち、ロト・ライスの治世の妨《さまた》げになるに違いないと、ことあるごと領主に彼を遠ざけるよう進言していたのは、この古参の家令たちである。  それがいま、てのひらを返すように、父の若いころにそっくりだともちあげる。もちろんこの老人たちにしてみれば、以前も今も、ひたすらライス領を思っての態度なのだろう。それがわかるからこそケアルは、口や態度に出して老人たちを責めることはできない。 「——わかりました。今夜のところは、ひきさがりましょう」  ケアルの手を握りしめ、老人は言った。 「しかし、われらの気持ちは変わりません。このような老体でも、ケアルさまのお役に立つことがありましたなら、いかなりとお申しつけください」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_105.jpg)入る] 「ありがとう」  老人たちが名残り惜しげに何度も頭をさげながら部屋を出ていくと、ケアルはがっくりと椅子に腰をおろした。 「なにか軽く食べるものを、お持ちしましょうか?」  マリナに訊ねられ、そういえばと腹をおさえる。 「考えてみたら、朝からなにも食べていなかったな……」 「お腹がお空きになった?」  ケアルがうなずくと、マリナは「良かったわ」とにっこり笑った。 「あのお年寄りたちのおかげね。ほんのさっきまで、すっかり気落ちして、すぐにでもお父さまの後を追いかねない風情だったんですもの」  ひどく心配したのだろう。いま見せる笑顔が晴れ晴れしいものだけに、その心配の深さが察せられる。 「でも、どうなさるおつもりなの?」  温めなおしたスープを持って戻ってきたマリナが、ケアルの隣に座って訊ねた。 「うん。できるなら、聞かなかったことにしたいんだけどね」 「それは無理ね」  マリナはしごく自然に断言した。 「それに——あなたとあのお年寄りたちの間にこんな会話があったと、お兄さまがご存知になるのも、きっと時間の問題よ」 「でも、口のかたさでは、あの老人たちは誰よりも信用できるよ」  ケアルは軽く目をみひらき、マリナを見つめた。 「口がかたいだけじゃ、だめなのよ。不信感っていうのは、ないものも見えるし聞こえてしまうものなのよ。そんな相手に、しらをきり通すなんて絶対に無理だわ。返事の声音ひとつ、目つきひとつに、言いがかりをつけてやろうと構えているんですもの」 「兄上がそうだと……?」 「違うと、否定できるの? お兄さまはきっと、あなたと話をした相手、挨拶を交わした相手、視線を合わせた相手すべてに疑いを抱くと思うわ。あなたとその相手が、自分をなきものにしようと計画しているにちがいないってね」  否定などできなかった。いまの次兄なら確かに、そこまで考えかねない。  けれども——いったい自分のどこが、次兄をそこまで疑り深くさせてしまったのだろうか。確かに次兄には、幼いころから好かれていなかったことは知っている。島人の女から生まれたケアルを弟と呼ばなければならないことが、次兄にはよほど腹立たしいことだったのだろう。  だが、長兄も父も逝ってしまった今、このライス領内で次兄と最も血が近いのはケアルなのだ。姉たちは他領に嫁ぎ、祖父母もとうに亡くなっている。腹立たしい気持ちはあっても、この世にふたりだけの兄弟となってしまったのだ。今こそ、これまでの反感をおさえて兄弟が手をとりあうべき時ではなかろうか。もし次兄がケアルの手を取ることは自尊心が許さないというならば、せめてケアルが次兄の陰となり力を尽すことを、黙認してくれるだけでもいい。 「でも……兄上だって、今はなによりも自分のために力を尽してくれる味方が、ひとりでも多く欲しいはずだ。ライス領の未来のためにも、兄上になんとかおれの真意をわかっていただけないものかな……?」  真剣に訴えたケアルに、マリナは肩をすくめて苦笑した。 「あなたって妙なところで、つくづくお莫迦さんだわ。わたくしはあなたのそんなところが、とっても好きなのだけど」 「マリナ……!」  好きだと言われて、思わずケアルは頬を染める。マリナを愛しいとはもちろん心の底から思ってはいるが、こんなふうにいきなり、心の準備もできていないときに言われては、どうにも照れてしまって仕方がない。 「あなたは、ひとのことはよく見えていらっしゃるのに、こと自分のことになると、全然わかっていらっしゃらないのね」 「おれのこと?」 「あなたがどれほど、お兄さまたちにとって脅威であるか。わかっていらっしゃらないのは、あなただけだわ」  苦笑しながらマリナは手をのばし、ケアルの赤い髪を撫でる。 「あなた以外のひとは皆、わかっているのよ。だからあのお年寄りたちは、あんな行動に出たの。ギリ領主さまにしたって、わかっていらっしゃるから、あなたを気に入ってくださっているのだわ」  だから、とマリナはケアルの顔を優しくのぞきこむ。 「あなたがあなたである限り、お兄さまは決して、あなたを信頼などしないわ。あなたがどんなに、私心のないところをお見せになってもね」 「まさか、そんな……」  きっと必ず、なにか方法があるはずだ。あるいは、なにかきっかけがあれば……。  ライス領の未来のためにも、おれは今こそ兄に信頼してもらえる男にならねばならない。どうすればいいのかはまだわからないが、ケアルはそうかたく決意した。      3  ロト・ライスの死去は、伝令たちの働きにより、翌日のうちに全ライス領民が知ることとなった。  世継ぎであるセシル・ライスの死から、わずか半月も経たぬうちの悲報である。領民たちの衝撃は、当然のことながら強かった。特にロト・ライスは、賦役を軽減したり教育制度をととのえたり、また職人たちを優遇したりといった改革を行ない、ここ何代かの領主たちの中でも、名君として領民たちの支持も高かったゆえに、その死はだれからも悼《いた》まれた。  他領からも、正式な葬儀日程が決定する前に数多くの弔文が届けられた。また、各領主たちに先だって、各領の重臣たちが弔問客として訪れた。これは礼儀にかなったことではあるが、かれらに領主亡きあとのライス領内の実情を探る意図があることは、あまりに明白である。  公館の庭にはふたたび、白い流し旗が立てられた。セシルのときよりも旗の数は何倍も多く、何本かに一本は、ライス家の紋章が染めぬかれた旗が使われた。また公館ばかりでなく、島や町単位で、公の場所には領主の死を悼む白い流し旗が立てられた。  通常の業務に加え、弔問客の迎え入れや葬儀の準備などで、公館の家令たちは寝る間もないほどの忙しさだった。次兄も父が亡くなって、なにか吹っ切れたものがあったのか、しごく真面目に仕事をこなしている。  ミリオが正式に領主として立つのは、父の葬儀が終わったあとになる。各領の領主たち立ち会いのもとに就任式が行なわれ、それが終わるとはじめて現在の領主代理から「代理」の文字が消えるのだ。 「デルマリナ船が、俺に面会をもとめているだと?」  書類の積み上がった執務机のむこうで、次兄がじろりとケアルを見た。 「ぜひにと、船長からの申し入れです」 「ひょっとしておまえ、ライス領主に会わせてやるから訴えをとりさげろ、と迫ったんじゃないか?」  さぐるような目つきでミリオは、ゆっくりと立ちあがった。 「だとしたら重大な、命令違反だな」  デルマリナ船の強奪に加担した島人を処刑せよとの命令をうけ、ケアルがその結果報告をしたのは、父が亡くなって三日後のことだった。その間、次兄はあまりにも忙しく、ケアルは報告のため面会することも許されなかったのである。 「いいえ。先ほど申し上げたように訴えについては、デルマリナの規定で、船長が賠償金を要求したり相手の処罰をもとめることはできないのです」 「でも、デルマリナ議会とやらが訴えてくるんだろうが。だったら要は、同じことじゃないか」 「ですからそれも、目に見える被害がない以上、議会が船長らの訴えをとりあげる可能性は少ないと考えます」 「可能性、だと?」  眉をあげ、次兄は莫迦にしたように鼻先で笑った。 「デルマリナ通のおまえが考える�可能性�だ。さぞかし、確実性の高い可能性なんだろうな。あえて断言しないのは、間違ったとき言い逃れするためか?」 「兄上、おれはそんな……」  まあいい、と次兄は軽く手をふった。 「おまえなどに手玉にとられた、その間抜けな船長の顔を見てやろう。ライス領主が直々に面会してやると、伝令を出せ」  言われてケアルは、目をみひらいた。 「しかし兄上、今はそんな状況では……」  父の葬儀も終わっていない。公館には弔問客が滞在し、一種異様な雰囲気に包まれている。そんな中、デルマリナ船が公館から見える海域に停泊する事態になるのは、できるだけ避けたほうがいいのではないか。 「連中が面会をもとめている、と言ったのはおまえだぞ。そのおまえが、やめろと止めるのか?」 「いえ。ただ、面会されるならもう少し先がいいのでは、と。せめて父上の葬儀が終わってからでも——」 「なるほど」  書きもの机に手をつき、ミリオは含みのある笑みを浮かべた。 「つまり、今はまだ領主代理でしかない俺では、デルマリナの連中と面会するにはふさわしくない、と言いたいんだな?」 「決してそんなことは、言っておりません。領民たちの感情をご配慮いただけたら、と考えただけです」 「領民どもの感情だと?」  なにがおかしいのか、次兄は机をたたいて大笑した。 「なんでこの俺が、領民どもの気持ちなどを頓着《とんちゃく》する必要がある。領主が領民どもの機嫌をとるのではない、領民どもが領主たるこの俺の機嫌をとるべきだろうが」  ケアルは顔を伏せ、軽く唇をかんだ。父ならば決して、そんなことは言わなかっただろう。領民あってこその領主であると、父はだれよりもよくわかっていた。 (いや……今まだ、兄上を父上と比べるのは間違っている)  父にしても最初から、非のうちどころのない領主だったわけではないだろう。数十年を領主として生きた父と、まだ代理の立場でしかない次兄を比べてはいけない。 「——ああ、そうだ。デルマリナ船が近くに停泊し、船長どもが公館へ俺に面会するため出向けば、領民どもはさぞ驚くだろうな。新領主の俺に早速、デルマリナが敬意を表して挨拶に来たのだと」  それはいい、とミリオは満足げにうなずいた。 「領民どもだけではない。各領から来ている弔問客にも、デルマリナのやつらがこの俺にわざわざ会いに足を運んだのだというところを、見せつけてやろう」 「兄上、それはかえって逆効果になるのではないでしょうか?」 「うるさいっ!」  家畜でも追い払うように、次兄はケアルの進言を手を振って遠ざけた。 「俺が領民どもの尊敬を集め、各領からも一目おかれるようになっては、おまえが困るのだろう?」 「決してそんな……」 「ギリ老の後ろだてがあるのだと、いい気になっているなよ。父上亡きいま、俺が次の領主だ。おまえごときが何をしようと、所詮《しょせん》はくだらん小細工にすぎん。まあ、おまえなどには小細工程度がふさわしいのかもしれないがな」  言い放つとミリオは家令に、伝令を呼ぶよう命じた。家令が一礼し走り去っていくのを見送り、ケアルが退出しようとすると、 「——そうだ、ひとつ言っておく」  執務机の前に座りなおした次兄が、弟を引き留めた。 「なんでしょうか?」 「これからは俺を、兄上と呼ぶな。領主さまと呼べ」  ミリオはにやりと笑みを浮かべた。 「いち早くおまえがそう呼ぶようになれば、領民どもも安心するだろう。領主不在が長引くのは、おまえの言う領民どもの感情とやらに影響があるからな」  確かに、次兄の言うことには一理ある。だがそれが領民たちの感情を配慮してではないことは、ミリオの言いようからも明白だ。また父が存命中も、兄たちやケアルは父を領主さまと呼ぶことはなかった。息子たちだけは父を、領主さまではなく父上と呼んでいたのだ。  しかし、とケアルは思った。それで兄の気がすむならば、いくらでも兄をそう呼ぼう。ケアルが領主さまと呼び続ければ、いつか兄の疑いもはれるかもしれない。 「わかりました——領主さま」  ケアルが頭をさげて言うと、ミリオは声をあげて笑った。 「それでいいんだ。もういい、さがれ」  ケアルが執務室を出たあとも、ミリオの笑い声は聞こえていた。    * * *  白い流し旗が何本もならぶ光景に、ふたりの船長は目を丸くした。 「弔事のあったしるしです。ハイランドではその昔、人は死ぬと風になるのだと信じられていました。今ではもう、そんなことを信じている者はおりませんが、そのころの風習がいまも残っているのです」  死んで風となった者が迷わず、空へのぼっていけるように。地上をいつまでもさまよっていないように。そんな願いが、この風習の起源であると、ケアルは説明した。 「へぇ。私の目には弔事というより、祭のようにしか見えませんがね。デルマリナでは祭のときに、こんな旗を立てた小舟が大運河を埋めるほど集まるんですよ」 「ああ、私もそれを思い出しましたよ」  これが弔事のしるしだとは不思議な光景だと首をひねる船長たちに、ケアルは苦笑する。それをいうなら、流し旗のむこうに見える二隻の帆船は、ハイランドの人々にとってこれほど不思議な光景はない。  後継ぎの死に続いての、領主の逝去、そしてその葬儀も終わらぬうちにまたもあらわれたデルマリナの帆船。領民たちがそれをどう感じるか、ケアルは不安をおぼえずにはいられなかった。  公館に入った船長たちを真っ先に出迎えたのは、ミリオでも家令でもなく、黒衣に身を包んだマリナだった。 「いらっしゃいませ。あるじが亡くなったばかりで、この通りの状況ですが、ご領主は皆さまを歓迎しておりますわ」  そう告げて、デルマリナ社交界で最高の貴婦人たちがすると同じ御辞儀《おじぎ》をしてみせたマリナに、船長たちはまたも目を丸くする。 「あの……どこかでお目にかかったことがあるような気が……」  問われてマリナは、にっこり微笑んだ。 「デルマリナでは、父と何度か港に足を運んだことがあります。きっとそのときに、お目にかかったのでしょう」 「失礼ですが、お父上はなにを……?」 「父は、ピアズ・ダイクンという商人です。ご存知でしょうか?」  ぽかんと口をあけた船長たちの顔は、なんともみものだった。まさかこんな辺境に、ピアズ・ダイクンの娘がいるとは思いもよらなかったに違いない。 「どうぞ、こちらへ。ご領主が先ほどから、皆さまをお待ちしておりますわ」  マリナが優美な手つきで廊下の先へと促《うなが》すと、待っていたかのように家令たちが客人を案内するため現われた。家令の先導で廊下を進む船長たちのうしろを、ケアルはマリナと並んで歩きながら、 「これはいったいどういうことだい?」  小声で訊ねると、マリナはケアルの耳に顔を寄せて、 「ちょっとした示威《じい》行為よ。それに、あの方々にわたくしの顔を売っておきたくて」 「顔を売るって、マリナ……」 「あなたがご心配なさるようなことは、なにもないわ。家令たちも、わたくしが出迎えると申し出たら、喜んでくれたし」  それは喜ぶだろう。他の領民たちと異なり公館づきの家令たちは、何度もデルマリナからの客人を迎え、それなりに慣れているものの、いまだ恐怖感や嫌悪感がまったくなくなっているわけでないことは、その態度からもよくわかる。マリナ自身、ここへ来た最初のころは、彼女の世話を申しつけられた家令でさえ遠巻きにするような状態で、ずいぶんと苦労をしたものだ。父である領主が忙しい執務の間にも気にかけてくれ、また彼女が医師に代わって領民の女性の赤ん坊をとりあげたことで、今では家令たちもマリナを慕うようにさえなったが。 「家令たちはそうだが、兄上……いや、領主さまがどうお考えになるか……」  眉根を寄せて考え込んだケアルの脇腹を、マリナは先ほどの貴婦人らしい態度はどこへやらの仕草で、突っついた。 「とりこし苦労もいいところよ。お兄さまだって、きっとお喜びになるわ。なんといってもピアズ・ダイクンの娘が迎えに出たんですもの。新しいライス領主は、デルマリナでも指折りの有力者の娘を客人の出迎えにやれるほどの権力をもっているのだと、そう思われて有頂天になるに決まっているじゃない」  はたして次兄は、そこまで考えが及んでいるだろうかと思いつつ、ケアルは苦笑した。ミリオにとってマリナはいまだ「デルマリナの女」以外のなにものでもない。マリナの父親であるピアズ・ダイクンに対しても、やはり「デルマリナの商人」でしかないのだ。  とはいえ、実際に恐縮している船長たちを目にすれば、次兄はそれを自分の手柄のように得意がることはまず間違いないだろう。マリナが言うように、有頂天にさえなるかもしれない。 (それにくらべて……)  心の内でつぶやいて、ケアルはひそかにマリナの横顔に目をやった。  マリナのいいところは、こんな言い方をしても少しも奢《おご》り高ぶっているように見えない点だ。ふつうなら、父が有力者であることを鼻にかけた嫌な女だと思われるだろうが、マリナにはそんなところが少しもない。父は父、自分は自分、父の権力も財力も父のものであって自分のものではない——そう考えているのだ。時には少しは、父が有力者であることを利用させてもらうけれど、だからといって自分までが偉くなったとは思わない。  こんなふうな彼女だから、きっとデルマリナでは生きにくかっただろうな、とケアルは思う。デルマリナではだれもが彼女を、ピアズ・ダイクンの娘としか見なかっただろうから。おそらくマリナがケアルに最初にひかれたのは、彼女を誰かの娘ではなく、ひとりの女性、ひとりの人間として相対したからに違いない。  客人たちが招し入れられたのは、父の在位中はめったに使われることのなかった、謁見《えっけん》の間だった。  以前は領主が他領からの伝令に会うとき、また他領の重臣が客として訪れたとき、この部屋が使われた。しかし父は、面倒な手間を省けとばかり、伝令とは執務室で、客人とは自ら客間まで足を運び、面会した。金糸銀糸で刺繍《ししゅう》された絨毯や、壁に威容をもって掲げられたライス家の紋章など、きらびやかな装飾はこの数十年、閉ざされた扉のむこうに捨ておかれたままだったのである。  新しい領主は椅子に座り、客人たちを迎え入れた。領主の座る奥から扉のところまで、家令たちが姿勢よくずらりと並んでいる。  船長たちは居並ぶ家令たちや奥の椅子に足を組んで座る領主に、すっかり圧倒されてしまったようだ。促されて領主の前まで、いまにもつまずきそうな足どりで進み出る。 「ほ……本日は、面会の許可をいただき、ありがとうございます」  頭をさげる船長たちに、新領主は軽く手をあげて応えた。 「このたびは、その……新しくご領主の座に就かれたそうで……お喜び申し上げます」 「父上が亡くなったから、俺が急遽《きゅうきょ》、領主の座に就くことになったのだ。決してめでたくはないし、おまえに喜ばれる理由もない」  若い領主の言葉に、船長たちはあわててより深く頭をさげた。 「こ……これは失礼しました」 「ご無礼を、お許しください」  身を縮ませる船長たちの姿は、居並ぶ家令たちの最後尾で成り行きを見守っているケアルには、あまりに気の毒に感じられた。 「ふん。まあいい」  深々と頭をさげるふたりの船長を見やって、新領主は大儀そうに手をふった。 「わざわざ面会をもとめたということは、俺になにか用があるのだろう?」  船長たちは頭を伏せたまま、互いに顔を見合わせた。おまえが言え、おまえこそ申し上げろ、と譲り合う。 「用があるなら、さっさと言え。俺も忙しい身だ。父上の葬儀は控えているし、新領主としての仕事も多い」 「お……お忙しいところ、我々のために時間を割いていただき、感謝いたします」 「そうだな。そもそも面会を許したのは、そこに控えるケアル・ライスが、ぜひにと言ったからだ。いまがどのような状況か、よく知る者がぜひと言うなら、よほどの用があるに違いない」  そうだろう? とミリオ・ライスは扉に近い位置に控えるケアルへ目を向けた。この言いようでは、よほどの用でなかったなら、その責任はおまえにあるのだとケアルに告げているも同然である。  船長たちはふたたび互いに顔を見合わせ、おろおろとケアルを振り返った。お気になさらずに、とケアルは微笑んでみせた。それでわずかなりとも心強くなったのか、船長たちは顔をあげ、若い領主を見つめた。 「あの……その、我々は交易を望んでおります」 「ぜひとも我々と優先的な交易を行なうと、契約をむすんでいただきたく——」 「我々というのは、誰のことだ?」  訊ねられ船長たちは、それぞれ船主の名を告げた。 「ふん。そいつらは、デルマリナではどんな地位にある者だ?」 「大アルテ商人です。主に茶葉を扱っておりまして、中でもアトリ茶の卸しに関しては一手に引き受けております」 「茶の話など訊いていない。そいつの地位を訊いているんだ」 「ですから、大アルテ商人であると……」  繰り返す船長に、ミリオ・ライスは鼻先で笑ってみせた。 「聞いた話では、デルマリナに大アルテ商人とやらは、三百人もいるそうじゃないか。それにくらべてこの俺は、ライス領でただひとりの領主だ。そいつが三百人いる大アルテ商人の中で五本の指に入る者ならともかく、そうでないなら、話にならん」  そもそも、と若い領主は椅子の背にもたれかかり、足を組み直した。 「きさまたちは、三百人からいる大アルテ商人たちの、たいした地位もない船主に雇われている身だろうが。そんな下っ端がこの俺に面会するのに、手土産のひとつもないとは、どういうことだ?」 「兄う……いえ、ご領主!」  思わずケアルは一歩前に出て、次兄をたしなめた。はるばるデルマリナから海を越えてやってきた相手に、いくらなんでもその言いようはないだろう。  しかしミリオはケアルを完全に無視し、顔面を紅潮させた船長たちを見やった。 「まあ、この俺に謁見できただけでも、きさまたちにとってはいい土産となるだろう。俺にしてみれば、とんだ無駄な時間をとられてしまったがな」 「ご領主、お口が過ぎます!」  ふたたびたしなめたケアルを、ミリオはじろりと睨みつけた。そして側にいる家令に向かって、ぐいっと顎《あご》をまわす。するとその家令が一歩前に出て、 「ケアルどの、分をわきまえられよ!」  返す言葉もなくケアルが奥歯をかみしめると、居並ぶ家令たちの間にうす笑いがひろがった。 「そいつらを、退出させろ」  ミリオが船長たちを指さし、手を振る。すると今とは反対側の家令が前に進み出て、船長たちを扉へと促した。 「ぶ、無礼じゃないか!」  顔面を紅潮させた片方の船長が、怒りに肩を上下させながら怒鳴る。 「我々は、デルマリナの者だぞ!」 「そ……そうだ、我らを侮辱することは、デルマリナを侮辱したも同然だ」  拳をつきあげて抗議する連れに同調して、もう片方の船長も声をあげる。だがミリオはかれらに向かって、家畜でも追い払うかのように手を振った。 「うす汚い口でわめいて、うるさくて仕方がない。さっさと追い出せ」 「こ……このっ、野蛮人めがっ!」 「下手に出ていれば、つけあがって! なにが領主だ! 文化も技術もなにもない、辺境の野蛮人たちの親玉がっ!」  怒りに身を震わせながら、船長たちは交互に怒鳴った。 「——船長、おやめください!」  あわててケアルが止めたが、もうすでに手遅れだった。ミリオが目をつりあげて椅子から立ちあがり、家令たちに命じた。 「こいつらの首を刎《は》ねろ! 生きてデルマリナへ——いや、船へ帰すな!」 「兄上! 兄上、どうかお考え直しを!」  ミリオに駆け寄ろうとしたケアルの前に、家令たちが立ちはだかる。  扉が開き、何人もの家令が駆け込んできた。家令たちはふたりの船長を取り囲み、悲鳴をあげるかれらを拘束した。 「兄上、お願いです! どうか、どうか短慮なまねはおやめください!」  家令たちの肩の間から手をのばし、ケアルはミリオに訴えかけた。しかしミリオはケアルに目もくれず、側近の家令をしたがえ、部屋を出ていってしまった。 「おまえたち、やめろ!」  ふたりの船長が引き立てられていくと、ケアルは今度は家令たちに向かって叫ぶ。 「だめだ! そんなことをしては、だめなんだ!」 「ご領主さまの命令ですので」  ケアルをおしとどめた家令が、表情も変えずにそう告げる。 「兄上! おまえたちも! やめろ!」  ケアルの懸命な訴えは、ミリオにはもちろんのこと、家令たちにも届かなかった。      4  怒りと腹立たしさ、そして短慮な次兄を諫《いさ》めることすらできない己の不甲斐なさに、ケアルは涙がこぼれそうだった。  船長らに手を出せばどのような結果を招くことになるか、全く想像もできぬ次兄ではないはずだ。だからこそ、デルマリナ船を占拠した島人を裁けとケアルに命じたのではなかったのか。それとも、あれは相手が島人だったからなのか。自分と島人では、デルマリナの人々も見る目が変わるだろうとでも思っているのか。 「——そんなこと、あるはずがないだろうっ!」  ケアルは握りしめた拳を、謁見の間の壁にたたきつけた。  ミリオがマリナを「デルマリナの女」と、ピアズ・ダイクンを「デルマリナの商人」としか見ていないのと同じように、かれらもミリオを領主代理という肩書きのついた若い男としか見ないだろう。なぜ次兄にはそれがわからないのか。  いや、今は次兄を責めている余裕などない。一刻も早くそして確実に、次兄を止めなければ。次兄を諫めることができなかったおれに、いまできることは何なのか。  ケアルは拳を握りなおし、前方を見つめた。 「行くしかない——」  公館を走り出たケアルは、倉庫から前庭に翼を引き出した。部屋の外で事の成り行きを聞いていたマリナが、すべてを心得た様子で、ケアルの飛行服を持ち出して駆け寄ってくる。 「ギリ領主さまのもとへ、行かれるのでしょう?」  はっとしてケアルは目をみひらいた。 「マリナ、どうしてそれを……」 「あなたのことですもの。わたくし、手に取るようにわかりますわ」  にっこり笑うマリナを心強く思いながら、ケアルは苦笑した。わかっているなら話は早い。 「そうか——では、もしもの時のために、きみはこのままオジナの家へ行きなさい」  手早く飛行服を身につけながら、マリナに告げる。 「いいえ、わたくしは残ります」 「マリナ、聞き分けてくれ」 「あの様子では、お兄さまはすぐにでも船長たちの首を刎ねておしまいになるわ。あなたが戻るまで、わたくしが止めます」  大きく目をみひらき、ケアルはマリナを見つめた。 「そんな……だめだ。そんなことをしたら、きみまで危ない」 「だいじょうぶよ。お兄さまがあんなふうに居丈高になったのは、家令たちに自分がどんなに強い領主か、見せたかったからだわ」 「わかっているなら……!」 「でも、家令たち全員が、お兄さまにしたがうとは限らない。げんにあそこにいた家令たちはみな、お兄さまに媚《こ》びて領主側近の座を得ようとしている者たちばかりだったわ。そんな人たちだからこそ、権力に弱いのよ。もし、ギリ領主さまもあなたのお考えに賛成だと知れば、半数はこちらに寝返るわ」 「マリナ…………」 「まあ残り半数は、お兄さまのもとへご注進に走るかもしれないけれどね」  でもだいじょうぶよ、とマリナは強い目をしてうなずく。 「公館には、わたくしを庇《かば》ってくださるひとがたくさんいるもの。あなたがお戻りになるまで、わたくしは公館のどこかに身を隠しているから」 「絶対に危ないまねはしないと誓ってくれないか?」  そう頼んだケアルを、マリナはじっと見あげた。 「——わかったわ。誓います」  ケアルを安心させるためだけの、口先だけの誓いなのかもしれない。だがケアルは、その誓いを信用するしかなかった。いまはマリナを連れてオジナのもとへ行く時間も、オジナに彼女の身の安全を頼む余裕もない。  無言でケアルはマリナを見返すと、彼女の肩を抱き寄せ、艶《つや》やかな黒髪に口づけた。  ふたたびこうして、マリナを抱きしめることができますように。そんなこともあったねと、ふたりで笑いあえる日が来ますように。願いを込めて彼女を抱きしめてから、ケアルは飛行服のベルトに翼の留め具を繋《つな》いだ。 「行って来る」 「お気をつけて」  短いやりとりのあと、大きな不安を抱きつつ、マリナに見送られてケアルは前庭を飛び立った。    * * *  ケアルが大空のむこうへ飛んで行ってしまうと、マリナはドレスの裾を持ちあげ、急いで公館の中へ戻った。  いまひとつおめでたいところのあるケアルは気づいていないらしいが、公館づきの家令たちのマリナへ対する態度は、みごとなまでに真っ二つに分かれていた。片方は、ライス家に嫁いできた女性としてマリナを奥方と呼び、だれに対しても公平に優しく接する彼女に親しみを抱いてくれる者。もう一方は、デルマリナの女と吐き捨て、さすが島人の女から産まれたやつは、平気でどこの馬の骨ともわからぬ女を公館に入り浸らせていると、苦々しく思っている者。  これでもマリナは、地道に味方を増やしてきたつもりだ。ロト・ライスの亡くなった夜、ケアルに領主になってくれと頼みに来た老家令たち——ケアルはあれ以来、老家令たちとの会話を避けているようだが、マリナはかれらとは何度も接触している。ミリオ・ライスがいつケアルを消そうと思い立つか、わからない。そのときのために。己が身の安全をはかろうとしないケアルに代わって、愛しい男を守るために。  四人の老家令たちはすでに、先ほどの謁見の間での出来事を耳にしていた。 「かれらを殺してはなりません。そんなことをすれば、ロト・ライスさまのご尽力が無になってしまいます」  家令たちの控え室となっている小さな部屋で、四人の老人たちを前に跪き、マリナは訴えかけた。 「しかしなあ……、ロト・ライスさまご存命中も、なぜデルマリナの鼻息を窺《うかが》うようなまねをするのかと、反感をもっておった家令も多いし」 「我々もまあ、ロト・ライスさまには深いお考えがあってのことだろう、としか……」  融通《ゆうづう》のきかない老人たちを怒鳴りつけたい思いを抑えて、マリナは胸の前でぎゅっと両手を組み合わせた。 「そうですわ。ロト・ライスさまは、ライス領の未来をだれよりも考えておいででした。そしてケアルは、お父上のその考えを、お兄さまたちよりもよく理解していました」  うむ、と老人たちはうなずく。 「確かにロト・ライスさまは、ケアルさまの見識を買っていらっしゃった」 「ええ、その通りですわ。そのケアルがほんの先ほど、自分の力ではお兄さまを止められぬと、ギリ領主さまにご助力いただくため、急いで飛び立ちました」 「なんと……! それは真《まこと》ですか?」  老人たちは一様に目を丸くして、互いに顔を合わせあった。 「どうして嘘を申せましょう。皆さまには、ケアルがギリ領主さまにご助力を願いに行くという意味が、おわかりでしょうか?」 「意味、というと……?」 「あれほど頑強に、自分はお兄さまの手助けをしたい、陰になってお兄さまを支えたいと言っていたケアルが、ギリ領主さまの手を借りてまでお兄さまにたてつこうとしているのですよ」 「それは、もしや……」  にっこりと微笑んで、うなずいた。 「ええ、そうですわ。ギリ領主さまに助力をもとめたケアルが、あとのすべてをギリ領主さまに任せて逃げ出すはずがありません」  ギリ領主の介入を導いた者として、ケアルはその責任をはたそうとするに違いない。そしてまた、ケアルの要請に応じたギリ老が、ミリオをそのまま領主の座に就かせておくはずもない。それはケアルにもわかっているはずだ。責任感の強いケアルが、あとになって、そんなつもりはなかったと言い出すことはないだろう。 「あとのすべての責任をとろう、すべてを我が身に引き受けようとの覚悟が、ケアルにはあるはずですわ。あのひとがそんな男だと、皆さまもよくご存知でしょう?」  すべての責任をとること——それはケアル・ライス領主になってこそできることだ。一介の家臣でいては、たとえ自らの死をもって贖《あがな》ったとしてもとれぬ責任である。 「そうか、ケアルさまがとうとう……」 「亡くなったロト・ライスさまも、きっとお喜びになるぞ」  老人たちは涙を浮かべ手を取り合って、感動している。呑気《のんき》なかれらに舌うちしたい気持ちを抑えて、マリナは言葉を継いだ。 「皆さま。事は一刻の猶予《ゆうよ》もございません。ひとり責任をとる覚悟をしたケアルに、ぜひ皆さまのお力をお貸しください」  マリナに促されてやっと、老家令たちは動きはじめた。 「おお、そうだな」 「こうしてはいられんぞ」  次の領主にケアルをと望んでいるのは、この老人たちばかりではない。また、ケアルを領主にと考えているわけではないが、ミリオが領主ではと、ライス領の未来に不安を感じている者も多い。いまひとつ踏み切れぬ者たちには、ギリ領主の後ろだてが得られると教えてやれば、ケアルを推す側にまわることだろう。  老人たちがあわただしく控えの間を出ていくと、マリナは次の行動に移った。  事の経緯を説明した手紙を急いでしたためると、マリナを慕ってくれている下働きの家令に、この手紙をオジナ・サワへ届けるように頼んだのだ。 「いいこと? できるだけ急いでね」 「任せといてください。あたしゃガキのころから、駆けっこでは誰にも負けたことがないんでさ」  小さな銅貨をそっと握らせてやると、その家令は胸を張って請け合った。  オジナとはすでに、いざとなった時どんな行動をとるべきか、ケアル抜きで何度も話し合っている。ケアルは彼を良い友人だと信頼しているようだが、マリナは彼の計算高さを見抜いていた。父親が公職から追放されたオジナは、ミリオが領主である限り、決してライス領の重職につくことはできないだろう。だがケアルが領主となれば、彼にも道はひらけるのだ。またオジナは、デルマリナとの交易を見込んだ茶葉の栽培では、ケアルとは共同経営者の立場にある。そんな彼が、この機を逃すはずはない。 (それにオジナは、若者たちへの影響力が大きいわ)  若者たち、それに島人たち——オジナはかれらが望んでいるものを、よく知っている。公館づきの家令たちや、デルマリナから来たマリナには見えぬものが、彼には見えているはずだ。  だいじょうぶ。きっとうまくいく。  オジナへの手紙を託した家令が公館をぬけだすと、マリナは別の家令に酒肴《しゅこう》の用意をさせた。  いま公館には、他領からの客が何人か滞在している。ロト・ライスの死去を知り、領主たちの先触れとしてやって来たかれらは、全員がそれぞれの領で重職につく者たちだ。  マリナは容姿の良い女家令を数人えらびだすと、用意された酒肴を手に、彼女らを引き連れて客人のもとへ向かった。できるならマリナ自身も女家令たちにも、肩のあいた華やかな色彩のドレスを身につけさせたいところだが、公館全体が喪に服している現在、そんな格好などすれば悪目立ちしてしまう。 「いいこと? 色気がたりないところは、愛敬《あいきょう》でおぎなうのよ」  今から海に出る漁師もかくやの気力をみなぎらせて、女たちに声をかけるマリナに彼女らは、いったい何がはじまるのだろうかと不安げな目を向けた。 「あの……奥方さま、あたしたち何をすればいいんですか?」  訊ねられ、マリナはにっこり微笑む。 「簡単よ。お客さまたちを、酔いつぶしてしまえばいいの。どんどんお酒をすすめて、明日の昼まで起きていらっしゃれないぐらいに酔っていただくのよ」  酔いつぶれて眠り込み、ようやくかれらが起き出してきたときには、すべてが終わっているように。かれらに不審を抱かせずそれができるのは、男性たちではない。 (わたくしたち女性しかできないことよ)  遊び女のようなまねをして、はしたないとケアルは言うだろうか。たとえそう非難されても仕方がない、構わないと、マリナは思ったのだった。    * * *  倒れ込むように着地した翼の操縦者が、ライス家の末息子だと知った家令は仰天《ぎょうてん》した様子で、ギリ領主に知らせるため公館へ駆け込んでいった。 「最短記録だな、きっと」  日はまだ高い。おそらく伝令たちがかかる時間の半分ほどで、ライス領の公館からこのギリ領の公館へ到着することができた。  膝ががくがくと笑い、背中から肩にかけては熱をもって張りつめている。腕はもう、ゴーグルをはずすため持ちあげるのさえ辛いほど疲れきっていた。  だがケアルは気力で身だしなみを整え胸をはると、案内のために走り出てきた家令のあとに続き、公館へと入っていった。  ギリ老は執務室で、両手をひろげてケアルの突然の訪問を歓迎した。 「よくいらっしゃった。このたびは不幸が重なり、さぞお辛かったじゃろう」 「お心遣いいただき、感謝します」  ケアルは深々と頭をさげ、次いで室内を見回した。壁際に、世話係の家令がひとり。扉の外にも、家令が控えているだろう。 「前もってご連絡もさしあげず、いきなり訪れましたことを、お許しください」 「いやいや、構わん」  にこにこ笑いながらギリ老は、家令に命じてお茶の用意をさせる。家令のさしだすいれたてのお茶を冷たい指で受けとって、ケアルは前に座ったギリ老を正面から見つめた。指先が震えそうになるのを、きゅっと茶器を握りしめることでおしとどめる。 「失礼を重ねるようで申し訳ありませんが、人払いをお願いできますでしょうか?」  ケアルの言葉に、ギリ老の白い眉があがった。 「ふむ、よかろう。——さがりなさい」  うなずいたギリ老が、世話係の家令に命じる。  一礼して背中を向けた家令を見やり、ケアルはふたたび茶器を握りしめた。 「——扉の外に控えている家令も、お願いできますか?」 「用心深いことよな。まあ、よろしい」  部屋を出ていく家令に、外の家令も離れるように言えと命じた。  扉の外にひとの気配が完全になくなると、ギリ老は手にした茶器を小卓に置き、目を細めてケアルを見つめた。ケアルは目をそらさずギリ老を見返しながら、心の内で落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。 「さて。人払いをしてまでの用件というのを、聞かせてもらおうかの?」  うなずいたケアルは茶器を小卓に置き、肚に力をこめてギリ老と向き合った。 「ギリ領主どのは、デルマリナについてどうお考えでしょうか?」 「デルマリナ? そうじゃな、海のむこうにある豊かな国、というところか」  ひとの気をそらすような返答に、ケアルは奥歯を噛みしめた。焦ってはならない。単刀直入に助力をもとめるのでは、この老獪な領主を動かすことはできないだろう。 「——では、我々はデルマリナとどう付き合っていくべきと、お考えになりますか?」  ケアルの続いての問いかけに、老人の目にどこか楽しげな色が浮かんだ。 「ふむ。それは難しい質問じゃな。たとえこちらが友好的に付き合っていきたいと願っても、デルマリナ側もそう考えておるとは限らん。なにぶんにも遠く離れた国のこと、なにを考えておるか、調べるのも難しいしな」 「友好的に付き合っていきたい、とは思っていらっしゃる?」 「そうじゃな。デルマリナは大国ゆえに、間違って足を踏みでもすれば、我々などひとたまりもない。まあそれは、おまえさんがいちばんよく知っておろうが」 「ええ。ですが、恐れてばかりいるわけではないでしょう?」  にっこりと笑みさえ浮かべてケアルが問うと、ギリ老は空気がぬけたような笑いをもらした。互いに互いの本心を探り合うというよりも、ケアルにとっては一本の細い切れそうな糸を慎重にたぐり寄せているような感覚だ。 「ほう、おもしろいことを言う。わしはデルマリナが怖いぞ。それは本心じゃ」 「父もデルマリナを恐れていました。しかし同時に、受け入れなければならぬものなら、少しでもライス領の利となるように受け入れようとお考えでした。ギリ領主どのも、おそらくは同じようにお考えでは?」  ハイランド五領のうち、現在領主のいないマティン領は別にしても、フェデとウルバの二領主は、デルマリナを受け入れなければならないものとは考えていない。海流の関係でフェデとウルバには、過去、難破したデルマリナの船が流れ着くこともなく、また現在は、地理的な関係からデルマリナ船が両領の海域にあらわれることもない。そのためか、デルマリナの脅威にはひどく鈍感なのだ。しかしこのギリ領主が、フェデやウルバと同じように鈍感であるとはとても思えない。  ケアルは、この先、デルマリナ船はハイランドすべての海域にあらわれるだろうと予想している。若輩者の自分が予想できることを、この老人に見えていないはずがない。 「まあな。たとえ相手が大国であろうと、わしらが頭をさげ腰を低くしておらねばならんという法はないわな」 「ええ。こちらが頭をさげてばかりいては、相手がつけあがるだけです」  ケアルがうなずくと老人は、今度は膝をたたいて笑った。 「それは頼もしいの。大国にたてつこう、と言うのか?」 「いいえ。おれはただ、ハイランドが頭をさげ、デルマリナがそれを当然と思う——そんな事態は、両国にとって不幸だと考えているだけです」 「我々にとっての不幸、ではないのか?」 「違います、両国にとっての不幸です」  ケアルは力をこめて繰り返した。たぐり寄せるべき細い糸の先が、ようやく見えてきた気がする。ここで気を抜いては、糸はたちまち切れてしまうに違いない。 「ハイランドには、デルマリナにはない技術や資源があります。またデルマリナにも、ハイランドにはない技術と資源がある。それらを交換しあえば、両国はこれまで以上に発展するでしょう」 「なるほど。支配する者が支配される者に、その技術の教えを乞うことは、まずありえんからな」  何度もうなずいたギリ老は、目を細めてケアルを見やった。 「この歳にして、わしも相当に頭の柔らかいほうだと思っておったが。おまえさんは、そのわしにさえ思いもつかんことを考える」  ただし、と老人の口もとにうっすら笑いが浮かぶ。 「それは理想じゃな。夢のようなものだ。わしがデルマリナの人間なら、そんな理想話は鼻で笑って、たたきつぶすじゃろう」 「ええ、そうですね。もしハイランドが、デルマリナからごく近い場所、せめて船で一ヶ月程度のところにあるなら、かれらはそうするでしょう。それがいちばん簡単なのですから」  笑い返して、ケアルは続けた。だいじょうぶ、おれは落ち着いている。 「しかし幸いなことに、両国のあいだには船で三ヶ月もの距離があります。いくらデルマリナが大国とはいえ、踏みつぶすための足を精一杯のばしても、なかなかこのハイランドまで届きはしないでしょう?」  今度はケアルが「ただし」と、笑みを消して付け加えた。 「それは、両国間に大きな問題が起こらなかったら、の話です。たとえば先日の、島人たちがデルマリナ船を奪取した事件。あれがもし、船の乗組員を何十人も殺してしまうような事態に発展していたら——」 「デルマリナ側にしてみれば、二度めじゃからな。黙ってはおらんだろう」 「ええ、おれもそう思います。そんなことが重なれば、賠償金だの港の建設を要求するだのでは済まないでしょう」  亡き父が危惧していたこと。そしていまケアルがもっとも危惧していること。ケアルの視線に、力がこもる。 「踏みつぶすための足をのばすのではなく、その巨体を揺すってデルマリナがやってくる——というわけか?」  そうです、とケアルはうなずく。  ふいにケアルは両肩に、とてつもなく重い荷物を乗せかけられたような気がした。いや、誰かに乗せられたのではない。自分で、己の意志で背負ったのだ。 「——実はいまライス領内で、巨体を揺すってデルマリナがやって来かねない問題が起きています」  しかしケアルは背負った荷の重さなど外には少しもあらわさず、切り出すことができた。 「やっと本題に入ったな?」  にやりとギリ老は笑った。 「申し訳ありません。ご領主のお考えが、いまひとつ掴めなかったので」  ケアルが謝るとギリ老は、よいよいと言いながら手を振った。 「一刻をあらそうのじゃろう。ほれ、さっさと説明しなさい」  ケアルの説明を聞き終えて、ギリ老は小さく唸《うな》りながら目を閉じた。  考え込んでいる様子の老人をながめながらケアルは、すっかり冷めてしまったお茶をすすった。苦い薬草茶だったが、緊張してからからに渇いた喉には、嬉しい水分だ。気がつけば手のひらは汗をかき、じっとりと濡れている。自分で感じていた以上の緊張だったのだろうと、ケアルは内心で苦笑した。 「——ひとつ、確認しておこうかの」  いつの間にか目を開いたギリ老が、探るような表情でケアルを見ていた。 「なんでしょうか?」 「もしこのギリ領主が手を貸したなら、おまえさんは自分の手で、兄上を領主の座から引きずりおろさねばならなくなるじゃろう」 「ええ、わかっています」  ギリ老の目をまっすぐ見返して、ケアルははっきりうなずいた。  次兄から領主の地位を奪うのだ。そのうえギリ領主の介入を自ら引き込むことになる。領民たちには賊子と呼ばれ、憎まれるかもしれない。 「すべては、覚悟のうえです」 「いやいや。わしが訊いておるのは、兄上に反旗をひるがえす覚悟があるのかどうか、ではない」  そう言ってギリ領主は、ぐっと身を乗り出してきた。 「おまえさんに、ライス領主となる覚悟があるかどうかを訊いておるんじゃ」  えっ? とケアルは目をみひらいた。 「おれが……領主に……?」 「そうじゃ」 「まさか、そんな……。兄上を領主の座から引きずりおろしたおれが、領主になどなれるはずがありません」 「なぜそう思う?」 「だって、おれは実の兄に背くのですよ。正統な後継者である兄上を、他領の助力を得て裏切るんです。そんなおれが領主になるなんて、だめです」 「では次のライス領主は、だれがなる? おまえさんは領内をかきまわすだけかきまわしておいて、あとはよろしくと、次の領主に尻|拭《ぬぐ》いを任せるのか?」 「あ……っ」  かすかに赤面し、ケアルは顔を伏せた。そこまで考えてはいなかったのだ。事が終わってもし処罰されなかったら、マリナとふたり、どこか小さな島か、あるいはデルマリナの田舎にでも行って、静かに暮らすことができればいいと思っていた。 (おれはなんて甘いことを……)  それでは、ギリ領主の介入を引き入れた張本人であるこの自分が、混乱したライス領を見捨てることになる。逃げ出すことになる。それで「すべては覚悟のうえです」とよく言えたものだ。 「確かに、ご領主のおっしゃる通りです」  すっかり恥じ入ってしまったケアルに、ギリ老はどこか嬉しそうに笑った。 「まあ、おまえさんに欲がないことはよくわかった。しかし、そうも言ってはおられんだろう。もしおまえさんにライス領主となる覚悟があるというなら、わしは手を貸すぞ」  瞬間、ケアルの脳裏を父の顔やマリナの顔、白い流し旗のむこうに見える帆船の姿などが駆け巡った。  次兄を領主の座から引きずりおろしたこの手で、おれは領主の座につくのか? そんなことを亡くなった父上が、そして家令や領民たちが許してくれるのか? (いや、そうじゃない……!)  今やらねばならないことは、何なのか。ライス領の領民たちを、ハイランドに暮らすすべての人々を守るために、今なにかができるのは———— (おれしかいないんだ……)  たとえ、汚れた手で領主の座を盗んだ男だと言われても。たとえのちに他領の介入を呼び込んだ裏切り者として、ライス領を、あるいはハイランドをさえ追放されようとも。今このとき、そこにある危機を回避させることができるのは、自分しかいないのだ。  全身に、震えが走った。ガクガクと震える膝頭を、ケアルはぎゅっと握りしめる。 「覚悟します。ですからどうぞ、ギリ領主どののご助力をお願いします」  深々と頭をさげたケアルに、ギリ老は満足げにうなずいた。 「よし。では早速、ライス領へ赴《おもむ》こう」 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_135.jpg)入る]      5  ケアルが、三十人からの家令をしたがえたギリ老とともにライス領の公館へ戻ったのは、翌日の早朝だった。  ギリ領とライス領は隣接しているとはいえ、互いの公館を行き来するには陸路で歩いてまる一日かかる。小舟を使って海路をゆけばもう少し早く到着できるが、夜の海が危険なことは誰もが承知していた。もちろん翼を使えば最も早いが、まさか八十歳を越える老人に翼の操縦をもとめることもできない。  老齢のため足の弱いギリ領主には驢馬《ろば》に乗ってもらい、夜を徹して歩き続けたおかげで、こうして夜明け直後にライス領公館へたどり着けたのだ。  早朝ということもあってか、公館は思いのほかひっそりと静まりかえっていた。  庭の周囲に並び立てられた流し旗が、朝焼けにほんのり染まっている。けれどその旗のむこうに見える二隻の帆船が、昨日よりもずっと大きく見えるのは気のせいだろうか。 「ケアルさま、お帰りなさいまし。ギリ領主さま、よくいらっしゃいました」  公館から走り出てきて挨拶した家令は、父が亡くなった夜ケアルのもとを訪れた、あの四人の老家令たちのうちのひとりだった。 「こんな朝早くに申し訳ないが、兄上をお起こししてくれないか?」  ケアルが頼むと老家令は、にっこり微笑みながらかぶりをふった。 「ミリオさまでしたら、お休みになってはおられませんよ。昨夕からずっと、執務室に閉じこもっておいでです」 「執務室に……?」  急ぎの仕事でもあったのだろうかと、ケアルは首をかしげる。 「家令たちの約半数が、ミリオさまを執務室に入れたまま、扉の周囲や窓の前で座り込みをはじめましてね。ミリオさまは、どんなに外に出たいとお思いになっても、それができない状況なのですよ」 「す……座り込みだって?」  目を丸くして、老家令を見つめた。 「なんだって、いったい……」 「さあ、何なのでしょうね。座り込んだ者たちに話を聞いてみましたが、待遇改善をもとめるだの、あそこに停泊しているデルマリナ船をなんとかしてほしいだの、それぞれ好き勝手なことを申しておりまして」  さっぱりわかりません、と老家令は肩をすくめてみせた。 「それで——兄上は、ご無事なのか?」 「ええ、お元気ですよ。食事の差し入れも受け取られましたし、なによりひと晩中ずっと怒鳴り声が扉の外まで聞こえていました」  なんでもないことのように報告する老家令に、ケアルは眉をひそめた。  いま公館には、ロト・ライス死去の知らせを聞いて、各領主の先触れとして何人もの客人が滞在している。かれらは皆、それぞれの領で重職にある者たちだ。そんなかれらに、このような不始末を知られてしまっては、ライス領にとって大きな恥となる。  そんなケアルの懸念を表情から読みとったのか、老家令はふいに軽く手を打つと、 「——ああそういえば、公館にご滞在のお客人たちは、どういうわけか全員が酔いつぶれて昨夕から寝入ってしまわれました。おかげさまでお客人たちには、この騒ぎは知られておりません」  そう言って、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。まさか各領の代表ともいうべき立場で滞在している客人たちが、なにもなくて昼間から酔いつぶれるほどの酒を飲むはずがない。頼もしいというべきか、それとも白々しいと苦笑すべきなのか。戸惑うケアルのうしろで、ギリ老が呵々《かか》と笑った。 「おまえさんは、良い家令をもったな。かれらはよほどおまえさんに期待を抱いておるのだろう」 「その通りでございます。我らはケアルさまこそロト・ライスさまの意志を継ぐ御方と考えております」  老家令はギリ老に向かって深々と頭をさげた。 「ではこのわしは、可哀相《かわいそう》に囚われの身となった、おまえさんの兄上に会いにいくとしよう」  ミリオ・ライスと面会したギリ老は、脅しと呼んだほうがよりふさわしい説得をおこなったようだ。 「おまえさんの軽はずみな行動のせいで、ライス領ばかりでなく五領すべてが、とんでもない災厄《さいやく》に巻き込まれるところだった」 「ギリ領主として、わしはこの暴挙を見過ごすわけにはいかん」 「船長たちはデルマリナへ帰り、議会にこのたびのことを訴えるじゃろう。もしライス領主が訴えられることにでもなれば、五領はデルマリナの要求をすべて無条件でのまねばならなくなる」 「幸いなことに今ならまだ、正式な就任式の前じゃ。おまえさんがライス領主にならなければ、あれはただの莫迦者が血迷ったまでと言い逃れできるじゃろう」 「わしは、領主たちからなる�五人会�へ今回の件を話し合うべくはかるつもりじゃ。おそらく他のご領主たちも、わしと同じ意見じゃろうな」  ケアルは同席してはいなかったが、あとからギリ老にこんな話をしたと聞かされて、次兄が怒りと屈辱《くつじょく》に身を震わせる姿が見えるような気がした。  説得が終わるとギリ老はケアルの肩に片手を乗せ、広間に集まったライス領の家令たちを見回した。 「こちらのケアルどのが、兄上を説得するため助力を願いたいと、わしのもとへやって来たのは昨日のことじゃ。詳しい話を聞いて、わしはケアルどのに訊ねた。覚悟はあるのか、とな」  そこでギリ領主が言葉をきると、家令たちは互いに顔を見合わせた。 「覚悟……?」 「どういう意味だ?」  囁き交わす家令たちの声に、ギリ老はにんまりと笑って応える。 「そう。領主代理たる兄上に背く覚悟、兄上の非を公にし、その責任をとる覚悟じゃ」  ミリオに非があると咎めたも同然のその言葉に、家令たちは一斉にざわめいた。他領の領主が、よその領主の行為を表立って非難することは、めったにない。互いの内政に干渉しないことが、領主たちの間で暗黙の了解になっているからだ。 「ケアルどのにその覚悟があるならば、いくらでも手を貸そうと、わしは約束した」  なんとっ、と家令たちがどよめく。その声に押されるようにして、ケアルは一歩前に出た。 「——みんなには、まずは謝罪しなければならない。おれがこちらのギリ領主殿に助力をもとめたことで、ライス領は他領から、身内の失策の後始末もできぬのかと、侮られることになるだろう」  それもこれも自分の力不足のせいだと、ケアルは家令たちに向かって深々と頭をさげた。 「ケアルどのが我々に頭を……」 「ご子息が家令に謝罪なさるなんて……!」  その行為は家令たちに衝撃を与えたようだった。ロト・ライスの息子ではあるが、島人の女を母とするケアルをひそかに蔑む家令たちは多かった。だが、たとえ島人の血をひくとはいえケアルは領主の子息である。そんな立場の者が、家令などにむかって頭をさげて謝罪するなど、かれらには想像すらしたことがなかったにちがいない。 「しかし——ここで他領から侮られることをおそれ、兄上の非を認めなければ、ライス領は他領すべての人々から未来永劫、恨まれる存在となっただろう。そう、この五領——ハイランドに、デルマリナの介入を引き入れた愚か者として」 「そうじゃな。ミリオどのがデルマリナの船長を処刑すれば、いずれそうなったじゃろう」  ギリ領主が横から、絶妙な相槌《あいづち》を入れる。  家令たちは顔を強ばらせ、大きくざわめいた。この中には、ミリオがデルマリナの船長たちと謁見した場に居合わせなかった者も多いはずだが、おそらく全員が噂あるいは口伝えでその話を知っていた。だが、ミリオが命じたことが実行されたならばどのような結果をうむか、予想できていた者はほんの一部にすぎなかっただろう。  ここが正念場だと、ケアルはゆっくりと視線を動かし、家令たちを見回した。自然とまた一歩、足が前に出た。 「——おれはこのハイランドを、デルマリナの属国にはさせない。そしてまた、いまは他領から侮られても、このライス領を他のどの領よりも豊かな領土にしてみせる」  握りしめた拳を胸に当て、ケアルは力強く言い切った。その迫力に気圧されたように、ざわめいていた家令たちは静まり返った。  やがて、古株の家令たちがいるほうから、声があがった。 「おお……ロト・ライスさまにそっくりだ……」 「まるでご領主さまが生き返ったようじゃないか」 「ロト・ライスさまのお若いころを見ているような心地がするぞ」  見れば、父が亡くなった夜、ケアルのもとを訪れた老家令たちである。ケアルは声をあげた老人たちに、にっこりと微笑みかけた。自然と出た笑顔だったが、あとからギリ老は、あの笑顔が家令たちの心をとらえたにちがいないと言った。  ケアルが笑顔をみせた瞬間、あちこちから拍手がわき起こった。拍手はすぐ歓声へと変わり、ふたたびギリ領主が、これより自分はできるかぎり彼の力になるとケアルの肩を抱き宣言すると、より大きな喝采《かっさい》となったのである。  一室に監禁されていた船長たちは、ケアルの手により解放された。 「兄が無礼なまねをし、申し訳ありませんでした」  深々と頭をさげて謝罪するケアルに、首を刎ねられるかもしれない恐怖に震えて一晩を過ごした船長たちは、すぐに返す言葉が出てこない様子だった。  ケアルは家令たちに温かな食事の用意をさせて、船長たちと三人だけで食卓の席を囲んだ。航海中はたとえ船長であろうと、ろくな食事にはありつけない。デルマリナのピアズ・ダイクンの邸で供された料理にくらべ、素材も調理法もずいぶんと見劣りする田舎料理ではあったが、それでも船長たちにとっては久しぶりの御馳走《ごちそう》のはずである。  最初のうちはまだ、ほんとうに解放されたのか疑っていた船長たちも、ケアルが礼儀正しさの中にも親しみをこめてデルマリナでの失敗談などを話して聞かせるうちに、かれらの緊張もほどけてきた。それにやはり、船内食ではない温かな食事が効を奏したのだろう。やがて船長たちから、笑みがこぼれるようになった。 「兄は無礼をはたらいた罪により、謹慎しております。現在はおれが、ライス領主の代理となりました。おれでよろしければ、お話をうかがいますが?」  機をみてケアルが申し出ると、船長たちは互いに顔を見合わせ、 「昨日も申し上げたように、我らは交易を望んでいます」 「ぜひとも契約を、お願いしたい」  わかりました、とケアルはうなずいた。 「ただ、このハイランドに、デルマリナの人々が欲しがるような品があるかどうか。それにデルマリナの品を輸入するにしても、ハイランドとデルマリナでは生活習慣もずいぶんと違います。半年もかけて往復する価値に見合う品が、はたしてあるでしょうか?」 「我々の船主は、買い入れたお茶をこちらで売ろうと考えているのですが……」  船長の言葉にケアルは、申し訳ありませんと首をふった。 「残念ながらハイランドには、お茶を飲む習慣がありません。病人やお年寄りなどはお茶を飲みますが、それは薬として飲んでいるのであって、デルマリナでのように嗜好品《しこうひん》として考えられてはいません」  将来的に、お茶の製法が知れ渡るか安価な茶葉が手に入るようになれば、お茶を飲む習慣が根付くかもしれない。けれどそれも生活に余裕がある領民たちにだけで、人口の七割をしめる島人たちにお茶を飲む習慣ができるとは、まず考えられなかった。 「では、葡萄酒《ぶどうしゅ》は?」 「長い航海に耐えられ、採算がとれる葡萄酒となると、どうでしょう?」 「石炭……は、採算がとれませんな」 「ならば、宝石はいかがですか?」  身を乗り出して訊ねてくる船長に、ケアルは肩をすくめてみせた。 「ハイランドには、デルマリナのような社交界は存在しません。ご婦人がたが集まる機会といえば�針の集い�ぐらいですね」  近所の家に赤ん坊がうまれると、女性たちはどこかの家に集まり、赤ん坊の産着や布団を縫う。�針の集い�に呼ばれるようになれば、もう子供ではなく、一人前の女性として認められたことになる。いわばそれが、ハイランドの社交界といえるだろう。  とても着飾ったり宝石をつけて出席するような会ではない。 「宝石もだめとなると……、これはなかなか難しいですな」 「往復半年もかかれば、やはりそれなりに高価なものでなければ、とても採算はとれないだろうし……」  船長たちは頭をつきあわせ、あれでもないこれでもないと相談しはじめた。  話に区切りがついたと見た給仕の家令が、さりげなくケアルに近づき、耳打ちした。いいよとうなずいてやると、給仕の家令は退出し、代わってマリナが一礼して部屋に入ってきた。  船長たちは話をやめ、あわててマリナのほうへ向き直った。かれらはマリナがピアズ・ダイクンの娘だと知っている。とはいえ当然ながら、彼女がなぜこのような辺境の地にいるのか知るはずもない。たとえケアルが本当のことを教えてやっても、かれらが信じるかどうかは疑わしいところだ。 「このたびは、とんだご無礼を申し訳ありませんでした。わたくしからも深くお詫《わ》びいたしますわ」  マリナは優雅に礼をすると、ケアルの斜めうしろに立った。慎ましやかに一歩さがって立つその様子は、どう見てもケアルの奥方の態度である。  ケアルはマリナの態度にいささか戸惑いながらも、彼女が「ご無礼を」と言ったことに安心した。ケアルもずっとかれらに対して、ご無礼なまねをしました、ご無礼をお許しください、と言い続けている。むしのいい話ではあるが、次兄がやったことをただの礼を失した態度だったと、強引に決めつけてしまおうとしているのだ。殺人未遂となれば大きな問題となるが、ただの無礼であれば、いくらでも言い逃れはできる。 「ご無礼を重ねるようで、とても心苦しいのですが——」  マリナは扉のところに控える家令に合図し、木箱を運び入れさせた。赤ん坊の揺りかごほどの大きさである。 「これはハイランドでとれた茶葉ですわ。散歩のおりに、デルマリナでよくいただいていた茶葉とよく似た低木を見つけたので、加工していただきましたの。残念ながらハイランドでは、お茶を飲む習慣がなくて、淋しく思っておりましたので」  ふたたびマリナは家令に合図すると、こんどは茶器を運ばせた。いれたてのお茶が、船長たちの前に置かれた。 「どうぞ、召しあがってくださいな」  促され船長たちは、おそるおそる茶器に口をつけた。 「こ……、これは……!」 「シバ茶の最高級品にも匹敵するかも」  予想した通りの評価を得て、マリナはにっこりと微笑む。 「これはまだ、試作品ですの。今年摘み取った葉は、これがすべてです。けれど来年にはこの十倍から百倍の収穫を、再来年には千倍の収穫を予定しております。もし皆さんの船主のかたが、このお茶に興味をしめすだろうとお考えであれば——」  言ってマリナは、木箱を指さした。 「これをデルマリナへお持ち帰りください。船主のかたに試していただき、買い取りたいとおっしゃるならば、わたくしどもには契約する準備がございますわ」  すぐさま船長たちは、ぜひ持ち帰らせていただきたい、と競うように申し出た。それどころか、この場で先に契約をしても構わないとさえ言い出したのである。 「それは、できませんわ」  しかしマリナは喜ぶふうもなく、きっぱりとかぶりをふった。 「契約ができるのは、船主か、その船を借りている者だけのはずです。もしおふたりが船をお持ちであるか、あるいは借りる予定があるのでしたら、また話は別ですけれど」  おふたりとも契約違反で訴えられたくはないでしょう? と微笑むマリナに、かれらは返す言葉もない様子だった。 「おふたりとも、わたくしを女だと甘くみていらっしゃるのね。でも、お忘れにならないでくださいな。わたくしはあのピアズ・ダイクンの娘ですわ。幼いころから、いちばん間近で父を見てきた人間です」  この笑顔の脅しに、ケアルは小さくため息をついて、額に手を当てた。デルマリナの人々にとって、ピアズ・ダイクンの名を引き合いに出されては、もうお手上げだろう。  あんのじょう船長たちは恥じ入った様子で、見本のお茶をデルマリナに持ち帰り、船主に渡したいと言い直したのだった。    * * *  二日酔いの頭を抱えて、公館に滞在中の客人たちが起き出してきたのは、船長たちが見本のお茶を手土産に船へ戻っていったあとだった。  昨日まで領主代理として公館内を闊歩《かっぽ》していたミリオ・ライスの姿が見えず、その代わりでもなかろうに、赤毛の三男坊が家令たちに囲まれて、ギリ領主と親しく会話している光景に、客人たちは驚きを隠せなかった。  ミリオ・ライスはいったい、どこへ姿を隠してしまったのだろう。ロト・ライスの正式な葬儀の知らせは、まだ出ていないはずなのに、なぜギリ領主がここにいるのだろう。ライス領の家令たちはなぜ、世継ぎでもない三男坊などにああも大勢つきしたがっているのだろうか。  不審に思いながらも、ギリ領主を目の前にして挨拶に出向かないわけにもいかず、中庭に卓を出して遅い昼食を楽しんでいるらしいギリ老とケアルに合流したかれらは、そこでまた仰天することとなった。気難しく口うるさいので有名なギリ老が、赤毛の三男坊に向かって笑顔で「若領主どの」と呼びかけたのである。  いったいなにが起こったのか。かれらは説明してくれる相手をもとめ周囲を見回したが、だれもが平然とした態度で、その任をはたしてくれそうな人物は見当たらなかった。  なにしろとにかく、ギリ領主が彼を「若領主どの」と呼んでいるのだ。ギリ老に追従していれば、少なくとも失敗はない。  気がつけば客人たちは全員が、ひきつった笑顔でケアルに「若領主どの」と呼びかけ、あとで家令たちの失笑をかったのだった。 「きみがお客さまたちに、昼間から酒をすすめたのだ、と聞いたんだけど?」  客人たちが緊張感あふれる昼食を終え、まずは一刻も早く自領にこのことを報告しなければと、伝令の算段をしながら部屋へ戻っていったのを見送って、ケアルは同じ卓につくマリナに訊ねた。 「ええ、そうよ。お客さまたちにはぜひ、昼過ぎまでお休みになっていただきたかったんですもの」  それにはお酒がいちばんでしょう? と微笑むマリナに、前に座るギリ老が声をあげて笑った。 「若領主は、いい奥方をお持ちじゃな。男に昼間から酒をすすめられたら、こりゃなんかあるんじゃないかと勘繰《かんぐ》るものだが、若いべっぴんさんに酒をすすめられて断われる男はおるまいて」 「みなさん、とても気持ちよく、どんどん飲んでくださいましたわ」 「いやいや、当然じゃろう。今度この年寄りにも酌《しゃく》をしてくれんかね?」 「ええ、喜んで。わたくしがお酌をするとお酒が三割増しで美味しくなると、よくお父さまがおっしゃっていましたの」 「それはいい。おまけに、十歳ばかり若返りそうな気もするぞ」  この昼食の席で初めて紹介したというのに、気が合うのか、それともギリ老が合わせてくれているのか、マリナはすっかり老人と打ち解けてしまった。 「奥方のおかげで、客人たちはミリオ・ライスの犯した失態を知らずに済んだのじゃ。ライス領にとっても恩人といえようぞ」 「ええ、そうですね」  ケアルはうなずきながら目を細めて、マリナを見つめた。  確かに、もし客人たちがミリオの失態を知れば、ライス領は他領からの非難をうけることになっただろう。あるいは、それをネタにミリオが領主の座をおりるよう要求され、ライス領は新領主選びに、他の全領からの介入を余儀なくされたかもしれない。 「外交はひとまずこれでどうにかなったとしても、残る問題は領内です」 「家令たちは、ほぼ全員が若領主を支持しておるぞ?」  どこに問題があるのだ? とギリ老は首をひねった。 「いえ、家令たちではなく、領民たちの感情面を憂慮しているのです。亡くなった父は領民たちの人気も高く、近年まれにみる名君と慕われていました」  そんな父にくらべて、自分はどうだろう。「上」に住む領民たちには、島人の血が混じった息子であると、汚点のように思われていることを、ケアルは知っている。島人たちはケアルがマリナを妻と決めたことで、ライス領にデルマリナを引き込もうとしている張本人と見ている者が大勢いる。  そんな領民たちが、これからはケアルが領主であると宣告されて、はたして受け入れてくれるだろうか。 「正直に言ってしまえば、おれは父上のあとを継ぐ自信がありません」 「だいじょうぶよ。だって、ケアルほど真剣に領民たちのためを思っているひとは、このライス領にいないもの」  励ましてくれるマリナには悪いが、それは身内の欲目ではないかと思う。 「——確かに、おまえさんは領主となるにはあまりに若過ぎるな」  日陰のほうへと身体をずらしながら、ギリ老が言った。 「五領の歴史をふりかえってみても、若くして領主の座についた者が善政をおこなった例はひとつもありはせん。権力に奢《おご》るか、はたまた若さゆえに家令たちの支持をえられず、家令たちと反目しあうか。他領の領主たちも、若い領主にはなめてかかるでな」  やはり、とケアルは目を伏せる。前途はあまりにも多難だ。そのうえ現在は、自領内または他の四領のみを気にしていればよかった昔とは違う。 「あら。そんなふうにおっしゃるのでしたら、ミリオお義兄さまが領主となられても同じではありませんか?」  マリナが少し考えるふうに指先を頬に当てながら、ギリ老に問いかけた。 「だってミリオお義兄さまは、ケアルとはたった一歳しか違わないんですもの。ギリ領主さまにとって、二十歳と二十一歳なんて全然変わりありませんでしょう?」  その言葉にギリ老は、当を得たりとばかりに口もとをほころばせた。 「その通りじゃよ。わしから見れば、ロト・ライスどのとて小僧っ子だった。その小僧っ子の息子であるおまえさんや、兄上たちなんてもう、昨日たまごの殻を割って出てきた雛鳥《ひなどり》のようなものじゃな」  ケアルの四倍は生きてきた老人は、そう言って大笑した。 「——若領主は、伝説の鳥ゴランをその目で見たことはあるかな?」 「ええ、はい」 「わしは、産まれたばかりのゴランの雛鳥が小さいからといって、それはゴランではないと言いはる愚かなまねはせんよ。若領主も、産まれたばかりの雛鳥の身で、親鳥より小さいと嘆く阿呆なまねはおやめなさい」  はあ、とまだどこか納得できない思いでうなずいたケアルのもとへ、ひとりの家令がそっと近づいてきた。 「ご会談中、失礼いたします」  一礼した家令は、公館の表玄関のほうをさししめし、 「新領主就任のお祝いの言上にと、多くの領民たちが駆けつけておりますが——いかがいたしましょうか?」 「え……?」  ケアルはぽかんとして、その若い家令の顔を見あげた。 「あら、ようやく動きはじめたのね」  マリナが少しも驚きもせず、それどころか不満そうな声音でつぶやいた。 「予定ではもっと早いはずだったのに。予定とか計画って、やっぱり思った通りにはいかないものなのね」 「マリナ……?」  ケアルとギリ老の双方から視線を向けられ、マリナは口もとに手を当て、ごまかすようにほほほと笑った。 「マリナ、叱らないから言ってごらん」 「あら。わたくし、あなたに叱られるようなことなどしていませんわ」  あさっての方向を見ながら、マリナはしらばっくれる。 「だったら、おれが留守中になにをしたのか、すべて白状しなさい。きみは、お客人たちに酒をすすめただけじゃないのか?」 「まあ、白状しなさいだなんて……。ねぇギリ領主さま、それではまるで、わたくしが言いつけを破っておいたをしたような言い方ではありませんこと?」  マリナに話をふられて、ギリ老は「おお、そうじゃ」とわざとらしく膝を打ち、杖を手に立ちあがった。 「わしはそろそろ、昼寝をする時間じゃ。いやいや年をとると、ちょっとの夜更かしさえ身体にこたえるでな。ましてや昨夜は、夜を徹しての旅じゃったからなぁ」 「まあ、それは気づかず申し訳ありませんでしたわ。わたくし、お部屋までお送りいたしますわ」  言いながらマリナも、老人と一緒に立ちあがる。 「マリナ、ごまかしてもだめだよ。そこに座りなさい」  ケアルは冷静に、彼女がいま立ちあがったばかりの椅子を指さす。渋々といった様子でマリナが座りなおすと、痴話喧嘩《ちわげんか》には関わっておられんとばかりに、ギリ老は部屋へ戻っていった。 「なにをやったのか、ぜひ教えてもらいたいんだけどね?」 「たいしたことじゃないわ」 「だったら、言えるね?」 「あなたがお出かけになってから、ちょっとオジナに手紙を出しただけよ」 「オジナも関わっていたのか?」  そうよ、悪い? とマリナは果実のような唇を尖らせる。 「お年寄りたちが家令の説得に失敗したときのために、領民たちに動いてもらって、既成事実をつくってしまおうって思ったの。だって家令は五十人たらずしかいなけれど、領民は何千人もいるのよ。わずか十分の一でも領民がケアルの支持を叫んで動けば、家令たちには脅威でしょ?」 「マリナ……」  深くため息をついたケアルに追い討ちをかけるように、若い家令がおそるおそる口をはさんだ。 「あの……若領主、領民たちの数はどんどん増えております。誰を対応にあたらせるべきか、ご指示をいただけませんか?」 「ああ、ごめん」  うなずいて、ケアルは立ちあがる。 「せっかく領民たちが来てくれたんだ、おれが直接顔をだすよ」 「わ……若領主がご自分で、ですか?」  若い家令は驚いた顔をして、ケアルを見つめた。 「え? なにか変かな?」 「いえ……その、来ている領民たちには島人も多く混じっていまして——ご領主が直接、足をお運びになるのは、やはり……」  あまりすすめられない、と言いたげに家令は言葉尻を濁した。 「どうしてだい? 確か父上は、上の領民たちばかりでなく島人たちとも接見なさっていただろう?」 「それとこれとは、わけが違います。どのような者が来ているのか、まだわからないのですから」  心配する家令に、ケアルはにっこり微笑みかけた。 「わかってるよ。おれを支持してくれる人々だ。こんな若くて海のものとも山のものともわからないおれを支持してくれる人々に、どうして会わずに追い返すことができるんだい?」  できるはずがないだろう? とケアルに顔をのぞきこまれて、若い家令は我知らずといった様子で頬を染めた。 「ケアル。あなたって、実は人たらしの名人だったのね?」  マリナがケアルの耳に顔を寄せ、赤くなった家令を見やりながら、あきれたように囁く。 「人聞きの悪いことを……」 「あら、悪口に聞こえた?」 「そうとしか聞こえないよ、ふつう」  ケアルが苦笑すると、マリナはにっこり微笑んだ。 「悪口じゃないわ。わたくしのお父さまも、よく言われていたもの。ピアズ・ダイクンは、人たらしの名人だって。これってつまりは、他人がどんなことをすれば喜んでくれるか、よくわかっているっていうことなのよね」  これでも悪口に聞こえて? とマリナは手をひろげてみせる。 「わかったよ。褒められたんだと思うことにする」  うなずいたケアルは、ただし、と付け加えた。 「いまので忘れたわけじゃないからね。きみがオジナと何を企んだのかは、あとでじっくり話を聞かせてもらうよ」  マリナにしっかり釘をさしてから、ケアルは若い家令とともに領民たちが詰めかけているという公館の表玄関の方へと向かったのだった。 [#改ページ]    第十六章 ゴランの息子たち      1  七日後に年にいちどの祭りをひかえ、デルマリナ市街はどこも浮き立っていた。  議場前広場はすでに色とりどりの花や布で飾りたてられ、運河にかかる橋は大きなものから小さなものまですべて、デルマリナの象徴である翼ある獣の図案が織り込まれた旗が掲げられている。祭を目当てに地方から出てきた者も多く、宿屋はどこも予約でいっぱいだった。また港近くの酒場では、祭に合わせて急いで航海から帰ってきた水夫たちが、祭の予行練習だとばかりに、陽気な乾杯を繰り返している。  今もまた、五人ほどの男たちが酒場に入ってくると、空いている席はないかと店内を見回した。 「なあ、あいつか?」  店のいちばん奥の席を陣取る集団の中のひとり、金髪の若い男が、いま入ってきたばかりの男たちを指さす。 「ああ、そうだ。右から二番めの男だ」 「神経質そうな男だな。あんまし話して楽しいって相手じゃねぇよな」 「だったらやめるか?」  仲間に言われて、金髪の男は「まさか」と笑いながら立ちあがった。顔をくしゃくしゃにした、夏の陽射しのような笑みだ。 「ちょいとごめんよ」  混雑する店内を、金髪の男は人好きのする笑みを浮かべながら、ひょいひょいと人をかきわけて進む。途中で酒場女にからかいの声をかけると、彼女から酒がいっぱいに入った器を奪い取った。 「それは別のお客さんの注文だよ!」 「倍にして返す、って言っといてくれよ」  乾杯、と器を酒場女にむかって掲げてみせてから、中の酒を半分ほど飲む。  店のなかほどまで進んだところで、彼の足どりは急に、酔っぱらいのそれに変わった。ふらふらとあちらにぶつかり、こちらで立ちどまり、やがて彼は店の入口に立つ男たちの前まで近づいた。 「おっと、ごめんよ」  正面から男にぶつかった拍子に、器の酒がこぼれて、男の上着を濡らした。 「こいつは悪いことをしちまったな」  上着からぽたぽたとしたたり落ちる酒を見おろし、彼はシャツのすそを引き出すと、無造作に濡れた上着を拭った。 「高そうな上着じゃねぇか。困ったな」 「いや、気にしなくていい」  心のひろいところをみせて、男は上着を拭う彼のシャツを押し返す。 「そうはいかねぇよ。上着の弁償はちょいとできそうにねぇが、せめて奢《おご》らせてくれ」  ほら、と金髪の彼は店の奥を指さす。 「あっちで仲間と飲んでるんだ。席は空いてるぜ」 「いや、私は……」 「みんな気のいいやつだ。それに見たところ、他に空いてる卓はねぇぜ。どうせ相席になるんだったら、オレんとこに来いよ」  渋る男にそう言うと、彼はむこうを通りかかった酒場女に声をかけた。 「ねぇちゃん、この旦那に酒を持ってきてくれねぇか。店でいちばん上等なやつ」  あいよ、と威勢のいい返事があった。 「ついでに料理も追加だ。あっちの卓に、評判の鳥の酒蒸しを人数分な」  こうなっては固辞するのも悪いと思ったのか、男は「では一杯だけ」と言いながら、金髪の彼について店の奥の席についた。 「どうしたんだ、エリ?」 「オレがちょいと、この旦那の上着に酒をかけちまったんだ。申し訳ないんで、酒を奢らせてもらおうと思ってな」  エリ・タトルの説明に仲間たちは、 「おとなしく座ってりゃいいものを、ふらふら歩きまわるからだぜ」 「ひとさまにご迷惑かけるんじゃねぇって、いつも言ってんだろ」  容赦なく彼を小突きまわす。そして酒をかけられた男へ向かっては口々に、 「すまなかったね、旦那」 「この一杯で許してやってくれや」 「悪かったな、旦那。こっちの料理も食べてくれ」  そう言って酒や料理をすすめた。  最初は見知らぬ水夫たちを前に用心していた様子の男も、酒を飲み、すすめられた料理を口にするうちに、態度も柔らかくなってきた。おまけに水夫たちは彼が言ったように気のいい連中で、喋る話はおもしろいし、目の前の皿や器が空くと惜しむこともなく次から次にと注文してくれる。おかげで一杯だけ奢られるはずが、いつの間にか四杯五杯と調子よく飲みほし、気がつけば全員で声をあわせ何度めかの乾杯をしていた。  男がすっかり酔っぱらったころ、金髪の若者が彼の隣に座り、さりげなく訊ねた。 「なあ、旦那。あんた、ハイランド帰りなんだって?」 「ん……? ああ、まあな」  酔った男は不審に思ったふうもなく、うなずいた。 「ハイランドのどこへ行ったんだ?」 「いちばん南だ。なんとか領って——」 「マティン領か?」 「そうそう、そいつだ。ところが領主が死んで、ごたついててな。代表者に会いたいと言っても、ごまかすばっかりで、ろくな返事もしやしないんだ」  そのうえだぞ、と男は卓に酒の器をたたきつけた。 「小汚いなりをした原住民どもが、いきなり襲ってきて、私の船を強奪しやがった」 「そりゃ災難だったな」 「ろくでもない連中だよ、あいつらは」 「でもよく無事だったな。船を強奪されたんだろ、旦那は」 「まあな。水夫たちも無事だったし、船も取り返すことができたからな」 「へぇ、そいつはすげぇな。島人を相手に、ひと暴れしたってとこか?」  まあな、と男は自慢げに胸をはる。 「んで、船を取り返したあとは、どうしたんだ?」 「ここの連中じゃ話にならないってんで、隣の領に移ったさ。ライス領とかいうんだが、なんとそこも領主が死んだばかりでな」  えっ? と金髪の若者は大きく目をみひらいた。 「ライス領主が死んだのか?」 「という話だ。まあ幸いなことに、ライス領にはデルマリナ帰りの息子がいてな。私がちょいと脅してやったら、領主の代理と会わせてくれたんだ」 「へぇ。脅すって、どうやって?」 「まあ……色々だよ」  男が気まずげに言葉を濁すと、金髪の彼はにやりと笑った。 「ライス領じゃ、ちょっと驚くような女性に会ったんだ。顔を見て、さすがの私もたまげてしまったな」 「なんだ、誰だい?」  こんどは男が、にやりと笑う。 「あんまり言いふらしても、まずいからな。——デルマリナの人間なら、顔は知らなくても名前なら知っている女性だ、とだけしか言えないな」 「まあ、そう言わずにさ。教えてくれよ。そこまで言ってわからねぇんじゃ、気になって仕方ねぇじゃん」  言いながら若者は、男に酒をすすめた。 「じゃあ……ここだけの話ってことで、ひとつだけ教えてやるよ」  男は声をひそめ、周囲を見回した。若者が耳を寄せると、 「さる大アルテ商人の、ご息女だよ」 「ひゃあ、ほんとかよ?」  目を丸くして驚いてみせる若者に、男は満足そうにうなずいた。 「本当だとも。ここで嘘を言っても仕方ないじゃないか」 「だよなあ。でも、そんなご婦人がどうしてハイランドにいるんだ?」 「それがだね、どうやらライス領主の奥方らしいんだ」 「ライス領主の?」  若者はぽかんと口を開け、続いて首をひねった。  まさか、と彼がつぶやくのを聞いて、男は眉をひそめる。 「なんだ、疑うのか? 私は本当のことを言っているんだぞ」 「いや……旦那を疑ってるわけじゃねぇんだけどさ。ただ、ライス領主の奥方って……なんか変な感じじゃねぇか?」 「まあ、こう言ってはなんだが——お似合いだったね。きっとあのふたりは、デルマリナで恋に落ちたんだろうな」 「デルマリナで?」  目をみひらいて、若者は繰り返す。 「なんでライス領主が、そのご婦人と、デルマリナで恋に落られるんだよ?」 「まあそこは、若いふたりのことだからね。詳しい事情は知らないが、ライス領主は彼女の父上の邸にしばらく滞在していたというから——」 「ちょっと待てよ」  金髪の若者は眉尻をあげ、いきなり男の腕をつかんだ。 「あんたの言ってるライス領主ってのは、まさか——ケアル・ライスのことか?」  ここにきて男は初めて、若者に不審を抱いた。なんでこの若造が、ライス領主の名前まで知っているんだ? 「あんた、会ったんだろ? 赤毛で緑の目をした、二十歳ぐらいの男だ。そいつがライス領主だったのか?」 「は……放せっ!」  男はつかまれた手を振り切ろうと、力をこめて腕を引き寄せた。だが若い彼は男が予想した以上に力が強く、かえって骨が軋《きし》むほどに握りしめられ、呻《うめ》き声《ごえ》をあげる結果となってしまった。 「オレが礼儀正しくしてるうちに、ちゃっちゃと訊いてることに答えろよ」  青年の顔から人好きのする笑みが消え、紫色の目が鋭い光を放って男をにらむ。男はたすけを求めて周囲を見回したが、先ほどまでともに祝杯をあげていた若者の仲間たちが、さりげなく立ちあがり、外から見えないようにふたりの周りに囲いをつくった。 「お、おまえたちは……!」 「答えろ! いまライス領主の座には、ケアル・ライスがついてんのかっ?」 「そ……そうだ……」  身の危険を感じて男は、震えあがりながらうなずいた。 「あいつには、兄貴がいたはずだ。領主だった親父がくたばったなら、兄貴どもが領主になったんじゃねぇのか?」 「わ、私は知らない……そんなことは」 「てめぇ、さっきはデルマリナ帰りの息子を脅して、領主の代理と会わせてくれたって言ってたじゃねぇか。ありゃ、嘘だったってのかよ?」  今度は襟首をつかまれた男は、手足をばたつかせながら悲鳴をあげた。 「いや、本当だ……! そのときは、彼の兄上が領主の代理だったんだ。けれどちょっと揉《も》めごとが起こって——」 「どういう揉めごとだ?」 「本当に、知らないんだ! 最後に会ったときは、彼が領主だった。私が知っているのはそれだけなんだ!」  てめぇ、と凄《すご》んだ彼をおさえたのは、仲間たちだった。 「おい、エリ。どうやらほんとに、このおっさんは知らないみたいだぜ」 「そのへんでやめとけ。じゃねぇと、びびってチビるぞ」  彼は仲間を見やると、不満げにではあったが男の襟首をつかむ手を放した。解放された男は、そろそろと青年から離れると、悲鳴をあげて逃げ出した。腰が引け、腕を泳がせて逃げる男の様子に、なにも知らない店の客たちが指をさして笑う。 「ちっ。勘定もしねぇで逃げやがって」 「奢ってやると言ったんだろうが。めいっぱい脅したうえに、勘定まで払わせたら気の毒ってもんだ」  仲間に言われて、青年は忌々しげに顔をしかめ、酒をあおった。 (あのケアルが、領主さまだって……?)  ひどく不思議な感覚だった。これまで領主といえば、まったく別の世界の存在、雲の上の存在でしかなかったのだ。親友は領主の三男だったが、付き合っている間に彼が父親の地位を鼻にかけたりすることなど、いちどたりとしてなかった。親友は領主の父と島人の母をもち、青年はハイランド生まれの母とデルマリナ水夫の父をもっていた。互いに両親のことでは好奇の目で見られることが多く、いまになって思えば、そんな点で共通する感覚があったのかもしれない。  そんな親友だったケアルが、いまはライス領主だという。父親を亡くしたというだけでも、別れてから親友の身にふりかかった多難さが想像できる。そのうえ、ふたりいる兄たちをさしおいて、今はケアルが領主だとは……。 (よっぽどのことが起こったんだろうな……)  もはや彼には想像すらできなかった。知りたくとも、ハイランドはあまりに遠すぎる。そしてまた、たとえ再び会うことができたとしても、領主となった親友に昔のように励ましたり慰めてやったりなどできるはずもない。 (いや……。いまのあいつには、オレみたいなのの励ましなんかより、嬢ちゃんに優しく慰めてもらったりしたほうがよっぽど力になるんだろうな)  肩をならべて笑いあっていた親友の手を離したのは、この自分なのだ。たとえそれが親友のためによかれと思ってしたことでも、彼が同じように思ってくれているとは限らない。こうして遠くデルマリナで心配していることすら、迷惑に思っているのかもしれない。  エリ・タトルは深いため息をついて、金色の髪をくしゃくしゃにかきあげた。    * * *  デルマリナではもはや、赤ん坊から老人にいたるまで、海賊「ゴランの息子たち」の名を知らぬ者はいない。 「それが、すげぇんだぜ。風もないし、海はすっかり凪《な》いでるってのに、もの凄い速さで船が近づいてくるんだ。それも、妙な煙りをもくもくと出してさ」  かれらに初めて出くわした者は、襲われる恐怖よりも、かれらの船の奇妙さに目を奪われる。  まず目につくのは、船の両舷に取り付けられた水車のような大きな車である。甲板の後部には煙突が突き出ていて、水車がまわっているときは、そこからもくもくと煙りをあげている。水車がまわることで船は推進力を得るのか、たとえ無風状態であろうとも、かれらの船はまるで順風を得たように軽やかに海原を進むのだ。 「初めて見たぜ、あんな船。いったい誰がつくったんだろうな?」 「そりゃあ、金を持ってるやつさ。世の中、金を持ってるやつだけがますます金を儲《もう》けられるって決まってんだよ」 「まあな。けどエルバ・リーアともあろう御仁が、なんでまた海賊なんかに手を貸すんだろうな。そんなことしねぇでも、充分に儲けてるくせにさ」 「もっと儲けたいんだろうよ。金持ちってのは、俺らみたいな貧乏人よりよっぽど欲深だっていうぜ」 「いやいや、俺が考えるにだな、あの船は宣伝みたいなもんじゃねぇのかな。こんなすげぇ船があるんだぜ、凪の日にだって走る船だ、航海日程が短くなってそのぶん儲けも増えることになるぜ、って宣伝してんだよ」 「ああ、なるほど。考えてみりゃ、あんな妙ちくりんな船、どんなにすげぇって説明されたって、買う気にゃならねぇもんな」 「だろ? けどああやって目にもの見せられたら、確かにすげぇや、ひとつ買ってみようじゃないかって気にさせられるな」 「……としたら、最初にその船を買うのはきっと、ピアズ・ダイクンだぜ」 「ああ、そうだろうな。いちばん�ゴランの息子たち�の被害を受けてるのは、やっぱりピアズさんの船だからなぁ」 「こないだなんか、上等の絹織物をごっそり持っていかれたっていうじゃねぇか。ピアズ・ダイクンでなきゃ破産してるだろう、ってぐらいの被害だったそうだ」 「気の毒になぁ。ここんとこピアズさんは、運が悪いことばっか重なってるもんな。ひとり娘は行方知れずになるし、妙な噂が立って、しばらく商売にならなかったし。そのうえ今度は、海賊だってんだから……」 「まあ、俺たちの心配することじゃねぇけどな。運が悪いってったって、俺たちなんかと比べりゃ、よっぽど儲けてんだからさ」 「そうだな。けど噂じゃ、ピアズさんがへこんだぶん、エルバ・リーアがずいぶん儲けたって話だぜ?」 「海賊の上前をはねりゃあ、そりゃ楽々儲けられるってもんだ」 「嫌だねぇ、金持ちってやつは」 「おまえ——それ、貧乏人の僻《ひが》みにしか聞こえねぇぞ」  今回の指定場所は、デルマリナの沖にある無人の小島だった。  ここにはその昔、デルマリナがまだちょっとした集落でしかなかった頃、海賊の襲来を監視し、人々にそれを知らせるための見張り台があった。当時の海賊は船を襲うばかりでなく、集落や村を海から襲っては金品を強奪していったという。海上貿易に力を入れはじめていたその頃のデルマリナは、年に何度も海賊たちの襲撃をうけた。  現在のデルマリナは、海賊たちの襲撃をうけることもない。デルマリナが巨大になったのか、それとも海賊たちが弱小化したのか。ために当時は数十人の男たちが駐在していた見張り台も、いまではうち捨てられ、廃墟《はいきょ》となっている。 「妙なもんだよな。昔は海賊を見張るための場所だったとこに、今はオレたち海賊が隠れてるってのは」  島の岩場に座り込んだエリのつぶやきに、ひょろりと縦に長い若者がうなずいた。 「そうですよねぇ。でもそれって、百年も昔の話じゃないですか。百年あればなんだって変わりますよ」 「まあな。爺さんの話じゃ、この見張り台があった頃の船ってのは、帆が一枚だけしかなくって、水夫たちが必死こいて櫂《かい》で漕《こ》いでたってそうだし」 「でしょう? それが今は——ほら、これをちょっと見てくださいよ」  言われてエリが目を向けると、彼は手にしたものを掲げてみせた。 「なんだ、そりゃ?」 「僕が考えた、新しい推進機です」  それは木を削《けず》ってつくった、奇妙にねじれた形の羽根だった。 「こいつを船の尻にくっつけて、ぐるぐる回すんですよ」 「そんなもん回したって、風が起こるわけでもなけりゃ、水を掻《か》くわけでもねぇんじゃないのか?」  訊ねたエリに、彼は「わかってないなぁ」と肩をすくめる。 「ほら、ここのねじれた部分に負荷がかかって、水の抵抗が生まれるんですよ。するとこの羽根は、抵抗をはねのけようとして前へ進むんです。僕の計算では、今の外輪船と同じぐらいの速度が出るはずです」 「そんなちっこいモノでか?」 「いえ、これは模型ですからね。船に取り付けるなら、この十倍ぐらいの大きさの羽根をつくらなきゃなりません。それに、木製ではなく金属でつくったほうが、より薄くて耐久性の高いものができるはずなんです」 「オレにはよくわかんねぇけど、ダーリオがいけそうだって思うなら、やってみろよ」  エリはうなずいて、いつまで経っても海賊の仲間にはとても見えない男の、細い肩をたたいた。  このダーリオこそ、デルマリナでもとみに有名になった「ゴランの息子たち」の新しい船を考案した男である。かたぎの鍛冶屋《かじや》の次男坊だった彼を、エリが仲間に引き入れたのだ。発想があまりに珍奇だったため、ダーリオはずっと「間抜け野郎」と呼ばれていた。だがエリは、ダーリオと親しく話すうちに、彼の発想は珍奇などではなく、単に人々が想像もつかぬほど先に進んでしまっているだけなのだと気づいたのである。  ダーリオもまた、生まれて初めてエリに認められ、彼が海賊とわかっても喜んで仲間になった。とはいえ仲間といっても、ダーリオは直接海賊行為に加担するわけではなく、船内の研究室や、どこかの町の工房に籠って日々、新しい装置の開発に励んでいる。 「ありがとうございます! それでひとつ相談があるんですけど……」 「なんだ? 金だったら、爺さんに言っていくらでも出してもらえよ」 「そうじゃなくて。前に、ハイランドには海水に錆《さ》びない、微生物で腐蝕《ふしょく》することもない金属があるって言ってたでしょう?」  エリがうなずくと、ダーリオがぐっと身を乗り出した。 「ぜひその金属で、この羽根をつくりたいんです! これはずっと海中に入っているものなので、鉄ではすぐに錆びてしまうと思うんですよ。でもその金属なら……」  腕を組んで、エリは考え込んだ。ダーリオが欲しいと言うなら、ぜひ用立ててやりたいが、残念ながらその金属はまだデルマリナに入ってきてはいない。 「うーん……。こりゃ、ピアズのおっさんに頼むっきゃねぇなぁ……」  ピアズ・ダイクンがその金属をハイランドから輸入しようと目論んでいることは、エリも知っている。ただしピアズが考えているのは、その金属を船底に貼りつけて、船の寿命をのばそうというものだ。船を新造するにはおそろしく金がかかるが、その維持費もまたへたをすれば船主が破産するほどかかる。金属を貼りつけることにより、維持費を安くあげようという肚らしい。 「頼んでもらえますか……?」 「あんまし気はすすまねぇけどな」 「お願いします」  海賊「ゴランの息子たち」の首魁《しゅかい》は、とりあえずエリだということになっている。だが実質的には、ひとりの老人がエリを含めた若者たちの指南役として、かれらを掌握《しょうあく》していた。とはいえエリたちにしてみれば、好んで女房の尻に敷かれている亭主のようなもので、時には頭をたれて老人に教えを乞い、時には老人をからかって遊び、かれらが老人を慕っていることは誰の目にもあきらかだったのである。  その老人が言うには、 「首魁たるもの、仲間のためなら嫌なことでもみずから率先してやらねばならん」 「そうでなければ坊のような小僧っ子を、だれが首魁と仰ぐものか」  首魁といっても、待遇も儲けも仲間たちと変わらないのに、なぜオレだけが嫌な思いをしなきゃならないんだ——そうエリは思うのだが、こんなときはやはり、自分がなんとかしなければならないと義務感にかられてしまう。 (オレって、すげぇ損な性格してるよなぁ。人が好いっていうのかなぁ……)  深い深いため息をついて、エリはダーリオにうなずいてみせた。 「わかった。ピアズのおっさんに頼んでやるよ」  沖合いから船が一隻、小島に近づいてくるのが見えた。 「エリ、やっとお出ましだぜ!」  甲板の上で、仲間が叫ぶ。 「よその船じゃねぇだろうな?」 「だいじょうぶだ、あの旗はピアズ・ダイクンのやつに間違いねぇよ」  近づいてきた船はゆっくりと、外輪の目立つ「ゴランの息子たち」の船に横付けした。すぐに板が渡され、あちらの船長が甲板の上にあらわれた。 「品物は、どこだ?」 「そこに積んであるよ。とっとと持って行ってくれ」  エリが甲板を指さすと、相手の船長は顔をしかめて鼻を鳴らした。 「ちゃんと全部そろってるだろうな?」 「疑うんだったら、確認しろよ」  見下したような目を向けられるのは、毎度のことだった。デルマリナでは有名な「ゴランの息子たち」も、ピアズ・ダイクンに雇われているかれらにとっては、単なる卑しい海賊ふぜいにすぎない。 (その海賊の上前をはねてるくせに、よくまああんなでかい態度ができるもんだ)  上前をはねているといっても、この荷はもともとピアズ・ダイクンの船から強奪したものだ。「ゴランの息子たち」は何回かに一度はピアズの船を襲い、奪い取った品はこうして、指定された場所で返却することになっていた。外輪のある船は目立つため、ひとけのない離れ小島や、航路からはずれた岬の沖などが指定される。 「わかった。確認させてもらおう」  船長が顎をまわすと、数人の水夫たちがこちらの船へ乗り移ってきた。かれらはもう何度もこの外輪船を見ているはずだが、それでもまだ珍しいらしく、積み荷もそっちのけでまじまじと大きな外輪や船尾にある煙突などをながめている。 「おまえたち! さっさとやれ!」  怒鳴りつけられた水夫たちは、亀のように首を縮め、あわてて甲板に積みあげられた荷へと駆け寄った。  荷のひとつが開けられ、光沢のある絹織物が引き出された。最高級の絹織物らしいが、エリにはなんの興味もない。 「数、品とも、大丈夫です!」  水夫が報告すると、船長はまた大仰《おおぎょう》に首をまわした。 「急いで運び込め。長居をすると、海賊の匂いが移る」  クソ野郎っ、とエリの後ろで仲間たちが吐き捨てた。ごめんな、とエリは心の中で仲間たちに謝る。  こんなことをしなければならないのも、エリが原因だった。  そもそも「ゴランの息子たち」が海賊稼業を始めたのは、ごく運の悪い成り行きにすぎない。しかし問題は、エリがハイランドからやって来た客人だったことだ。ケアル・ライスとともにエリは、しばらくピアズの邸に滞在していた。だがエリはひょんなことから他人の船を強奪するはめになり、デルマリナではお尋ね者になってしまったのである。  きみがいつまでもお尋ね者では、きみの親友が困るのではないか?  ピアズはエリにそう言って、お尋ね者としての手配をといてやる代わりに、自分の指示にしたがえと迫ったのだ。  デルマリナでは、他人の船を奪った者は重罪だ。  ハイランドの代表としてデルマリナにやって来たエリが重罪人では、両国の友好の足を引っ張ることになる。親友のケアルがいかに両国の友好関係を築こうと腐心しているか、エリはよくわかっていた。だからこそ、あえてピアズの条件を呑んだのだった。  仲間たちはそんなエリの心情を理解してくれ、申し訳ないと頭をさげる彼に、気にするなとまで言ってくれた。何にも代えがたい、素晴しい仲間だと、口に出しこそしないがエリは思っている。  積み荷が移されると、船長が懐から封書を取り出した。 「これはピアズさまからいただいた、次に襲ってもらう船の航路図だ」  封書が投げられ、エリは風に飛ばされそうなそれを、伸びあがってつかみ取った。 「荷の受け渡し場所は、どこだ?」 「それもそこに書いてある」  言い放つと船長は、渡し板を引きあげろと指示をだした。長居は無用というわけだ。  板がはずされるとほぼ同時に、船がゆっくりと離れはじめた。 「次は、いつどこで船を襲えって?」  封を開けたエリに、仲間たちが近寄り訊いてくる。仲間たちの中には、文字が読めない者も多い。自由に読み書きができるエリは、かれらにとって貴重な存在だ。 「ちょっと先だ。デルマリナの祭が終わってからだとさ」 「じゃあ、祭見物ができるな」 「ああ、そうだな。——爺さん?」  エリは、船縁《ふなべり》で煙管《きせる》をふかしている老人を振り返った。 「わしは、騒がしいのは遠慮したいのぅ」 「そりゃないぜ、爺さん!」  若者たちが、悲鳴のような声をあげる。かれらにとって年に一度の祭は、最高の娯楽なのだ。 「わしは遠慮したいが、おまえたちは好きにすればいい」  老人の許可が出て、若者たちは喝采をあげた。 「ただし、破目ははずさんようにな。くれぐれも自分たちがお尋ね者だということを、忘れるでないぞ」      2  運河にあふれかえるほどの小舟を窓から見おろして、ピアズ・ダイクンは小さく息をついた。  愛娘がいたときはピアズも、家令に小舟を飾りつけさせ、祭見物に出かけたものだ。いかに派手に豪華に舟を飾るか、マリナは一ヶ月以上も前から頭を悩ませ、色々な案をねっては父親に相談をもちかけてきた。そんなことが今では、もう遠い昔のように思えてならない。  今年の飾りはどうしましょうかと家令に訊ねられたが、ピアズはしばらく悩んだすえ、舟を飾るのはやめようと答えた。マリナがいないのでは、祭見物に出かける気にもなれない。飾りたてられた舟を見ても、辛い気持ちになるだけだろう。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_169.jpg)入る] (マリナ、おまえは今ごろどうしているのか……?)  ピアズにとっては、ただひとりの肉親だ。いつくしみ、手塩にかけて育ててきた。他人からみればずいぶんと甘やかしていたように感じるだろうが、気だてのいい美しく優しい娘になったマリナを、ピアズは自慢にさえ思っていた。  やがては娘にふさわしい気骨のある商売上手な男を見つけて婿に迎えようと、楽しみにしていたのに……。 (あの若造が、ハイランドなどという辺境へ攫《さら》っていってしまった)  ハイランドは、あまりにも遠い。手紙のやりとりすら無理なほどに。  生粋《きっすい》のデルマリナっ子である娘が、そんな辺境で幸せに暮らせるはずがない。きっと不自由をしているに違いない。そう思うとマリナが可哀相で、いても立ってもいられなくなるピアズだった。 「失礼します——お客さまがいらっしゃいましたが?」  家令が扉のところに立ち、そう告げた。 「客人だと? いったい誰だ?」  今日は来客の予定はない。といっても、ピアズのもとへ突然やってくる客は、後をたたないものだ。寄付や援助をもとめる者、新しい事業の共同経営者にならないかと誘う者。特に最近では、どこかの街で、あるいはたまたま乗り込んだ船で、マリナ・ダイクンらしい女性を見かけたと教えに来る者が多い。もちろんかれらは、マリナに似ている女性を見かけはしたかもしれないが、要するにピアズから謝礼をもらうのが目的の連中だった。  家令たちもよく心得ており、そんな連中の捌《さば》き方にはすっかり慣れてしまっている。 「また、謝礼目当ての破落戸《ごろつき》か?」 「いえ……それがその、以前こちらに滞在しておられたお客さまでして——」  あるじの問いに言葉を濁した家令の戸惑いは、案内され部屋に入ってきた客人の姿を見て、ピアズにも理解できた。 「なんて格好だ。それではどこから見ても、街の破落戸だぞ」 「海賊なんて、破落戸と似たようなもんじゃねぇか。かえって、看板に偽りなしって褒めてもらいてぇよ」  笑みを浮かべて言い放ち、エリ・タトルはすすめられもしないうちから勝手に、布張りの豪華な椅子にどっかりと座った。 「あ。出してくれんなら、オレは茶よりも酒のほうがいいからな」  家令を呼んで茶の用意をさせようとしていたピアズは、苦虫をかみつぶしたような顔をして、戸棚から切子細工も美しい硝子《がらす》の瓶を取り出した。瓶の中身は琥珀色《こはくいろ》の蒸留酒。それも樽《たる》の中で何年も寝かせた逸品だ。  ずいっと突き出されたグラスを受け取り、エリは仔犬のように鼻を鳴らして酒の匂いをかいだ。 「へぇ、いい酒のんでるなぁ。さすがはピアズ・ダイクンさまだ」 「嫌味はいい。わざわざここへ来たには、用があるのだろう。さっさと言え」 「うーん、話したいことがいっぱいあってさ。どっから話せばいいやらねぇ」  言いながらエリは「座れば?」と、前の椅子を指さした。渋々ながら腰をおろすピアズを、金髪の青年はにやにや笑いながら見守っている。  ピアズはこの若者を、というより「ゴランの息子たち」という海賊を、利用していた。かれらに船を襲わせることで、一度は壊滅的なほど落ちていたピアズ・ダイクンの評判を蘇《よみがえ》らせたのだ。  一時期デルマリナには、下町の半分を焼失した「下町の大火」はピアズ・ダイクンが破落戸を雇って火をつけさせたのだ、という噂が流れた。噂には尾鰭《おひれ》がつき、いかにもらしい理由説明までついて、ピアズはデルマリナ市民たちから憎まれる存在となってしまったのである。大アルテにも小アルテにも属さない一般市民から憎まれたとて、ピアズはなんの痛痒も感じはしない。しかし問題は、ピアズを憎んだ人々が、彼の船の荷揚げや荷積み、彼が所有する工房での作業などを拒否してしまったことだった。大アルテ商人とはいえ、末端の肉体労働を支えているのは一般市民たちである。かれらがなくては、商売も仕事も立ち行かなくなる。  流れだした噂を、もしピアズが否定させてまわれば、かえって人々は噂が真実であったのかと考えるだろう。そこでピアズは、海賊を利用しようと思いついたのだ。特に「ゴランの息子たち」は目だった存在でもあり、船がかれらに襲われるたびに、デルマリナでは話題になった。かれらに襲われれば、すぐさまデルマリナ中にひろまるのだ。  ピアズが「ゴランの息子たち」に出した指示は、他の商人が所有する船を襲うときよりも派手に、彼の船を襲えということ。そして決して、エルバ・リーアの船だけは襲うなということだった。  かれらに奪わせたピアズの船の積み荷は、数日後には密かに返却させている。ゆえにピアズ自身には、なんの被害もない。しかし何も知らないデルマリナ市民たちはピアズを、なんて運が悪いのかと同情してくれる。  おかげで今では、ついこの間までの噂もどこへやら、ピアズには同情が集まり、彼のもとで働く市民たちも帰ってきたのである。付け加えるなら、いまデルマリナ市民たちが囁き合う噂で最大の悪役とされているのは、エルバ・リーアだった。ピアズにとっては目論見通り、というわけだ。  おそらく目の前に座るこの若者は、ピアズの肚を最も理解している人物だろう。学も頭もない海賊と、侮ってはいけない。 (今はおとなしく私に利用されているが、はたしてこのままで済むかどうか……)  考えるピアズの前で、エリ・タトルはうまそうに酒を口に含んだ。 「おっさんのことだから、もうどっかで情報仕入れてるかもしれねぇけどさ。ケアル・ライスがライス領の領主になったらしいぜ」 「なんだって……?」  ピアズは眼帯をしていないほうの目をみひらいて、金髪の若者を見つめた。 「なんだ、まだ聞いてねぇのかよ」  肩をすくめる若者を見ながら、ピアズは椅子の背にもたれかかった。 (あの……赤毛の若者が領主だと……?)  まだ二十歳そこそこの年齢だったはずだ。そんなひよっ子に、領主がつとまるものなのか。 (いや、あの青年だったら……あるいは)  そこまで考えてピアズは、違う、と拳を握りしめた。あれは、私から愛しい娘を奪っていった男だ。重い使命を背負い、はるばるデルマリナへやって来たくせに、客人となって身を寄せた家の娘を攫っていった、礼儀知らずの考えなしの男だ。 「それは確かな情報なのか?」  訊ねるピアズに、青年は「さあな」と首をひねった。 「水夫たちの情報でさ、ハイランドに行って来たって自慢してる船長がいる、と耳にしたんだよ。んじゃ、ひとつ話を聞いてみるかと思って、酒場でそいつをつかまえて喋らせてやったのさ」  酔っぱらいの話だからな、とエリは付け加える。 「どこまでほんとか、わかったもんじゃねぇけど。少なくとも、そいつがハイランドへ行って帰ってきたってのは嘘じゃねぇ」 「嘘ではないと思う根拠は?」 「あっちで、あんたの娘と会ったんだと。んなこと知ってるやつは、そうはいねぇ」 「たまたま当たっただけかもしれないぞ」  低い声でそう言ったピアズを、彼は何度もまばたきして見つめ、ぷっと吹き出した。 「おっさん……それって単に、あんたの娘がケアルを追っかけてハイランドへ行ったってことを認めたくねぇだけじゃねぇの?」  ピアズは青年をにらみつけ、卓の上に商人らしからぬ逞《たくま》しい拳を置いた。 「——私の娘が、男の尻を追いかけるようなふしだらな女だと、そう言うのか?」 「オレは、ふしだらなんて思ってねぇぜ。嬢ちゃん育ちの娘に、よくそこまでの度胸があったもんだと、かえって感心してるぐらいなんだからさ」 「違う。娘はだまされたんだ。そうでなければ、優しいあの子が私を置いて、出ていってしまうはずがない」  青年はまじまじとピアズを見つめ、人好きのする笑みを浮かべた。 「あんたも、人の親だったんだな。親ってのはやっぱ、そう思うもんなのかなぁ」  オレもさぁ、とエリは自分を指さす。 「故郷におふくろをひとり、残してきたんだ。出てきたときはオレもおふくろも、まあ領主さまの命令だし、仕方ねぇやなって感じだったんだよな。けど、領主さまの息子は帰ってきたのに、自分の息子はいつまで経っても帰りゃしねぇ。帰らねぇのはオレが悪いんだけどさ、おふくろは領主さまやケアルのことを恨んでるのかなぁ……」  ぼんやり宙を見あげて、やがて彼は金色の髪をくしゃくしゃにかきまぜた。 「ああ、やめたやめた。んなこと考えてたら、辛気くさくて仕方ねぇや」  明るい口調で言うこの青年がいま故郷へ帰れば、彼の親友が困ることになる。それを彼自身が誰よりもわかっているのだろう。  我が子はもう帰って来ないのだと諦めるのと、いつか帰って来るかもしれないとあてもなく待ち続けるのは、はたしてどちらが辛いことなのだろうか。ふとそう考えて、ピアズはすぐさまその考えを振り払った。  マリナはきっと、帰ってくる。それに自分は、あてもなく待ち続けるようなまねはしない。ピアズはつい先ごろ、ハイランドへ向けて船団を送りだしたばかりだ。船団の目的はハイランドに要請した築港が完了したかどうか確かめるため、そして両国間で正式な交易を行うための調印をすることだが、ピアズは密かにマリナを連れ戻せ、と命じてある。  以前、娘を連れ戻すためだけに出した船は、季節も悪く、ミセコルディア岬を越えられずに戻ってきた。だが今度の船は違う。半年して船が帰ってきたときには、ピアズは愛しい娘と、より多くの利益を得られる契約を、この手にしているはずだ。 「今日のところはまぁ、あんたの娘のことは横においとくとして——水夫たちの噂じゃ、ハイランドへ行って戻ってきたって船は、ライス領主と契約したらしいぜ」 「なんだと……?」  エリの情報に、ピアズは眉根を寄せた。 「ライス領主と面会した船長が、木箱いっぱいの茶を持って船に戻ってきたんだと。えらい自慢そうなんで、うまくいったのかと聞いたら、当り前だと答えたそうだ。まあそれだけじゃ契約したのかどうかは、わかんねぇけどさ。水夫たちは、契約したんだなと納得したらしい」 「船主は誰だ?」  ピアズの問いに返ってきた答えは、さして手広く商売をしているわけでもない、凡庸《ぼんよう》な大アルテ商人ふたりの名前だった。 (ハイランドくんだりまで出かけて、その成果がお茶とはな……)  しょせんはその程度か、とピアズは心の内で苦笑した。だが、領主との面会までこぎつけたという点では、捨て置けない。 「ひとつ脅しておく必要はありそうだな」  つぶやいたピアズに、エリが「おお怖い」と、わざとらしく震えあがってみせる。 「——話はそれだけか?」  じろりとピアズが睨むと、青年はふいに真剣な顔つきになって身を乗り出した。 「いや、もひとつあるんだ、実は」 「さっさと言え」 「あんたがハイランドから仕入れる予定になってる金属、あれちょっと分けてくれねぇかな?」  ピアズは軽く目を細めて青年を見た。 「分けてほしいだと? どこかに持ち込んで儲けるつもりなのか?」 「まさか! オレたちは海賊であって、商売人じゃねぇよ。うちの発明家がさ、新しい船の推進装置とかに、そいつを使いたいって言い出したんだ」 「発明家……? 確か、ダーリオとかいう貧相な男だったな」  前に一度、ピアズがかれらの奇妙な船を見学したときに、船内の案内をしたのが確かその男だったのだ。  ピアズにしてみれば、あんなどこの馬の骨ともわからぬ男の言うままに、せっかくの船に不格好で珍妙な車輪をつけるなど、とても正気の沙汰《さた》とは思えなかった。けれど蓋をあけてみれば、彼らの船は無風のときにも走ることができる、船乗りたちや船主にとっては夢のようなしろものとなったのである。  今はまだ時期ではないが、いずれは所有するすべての船に、あの珍妙な車輪をつけたいとピアズは考えていた。 「あの男がまた新しい装置を考えだしたと、そういうわけなのか?」 「らしいぜ。オレにはよくわかんねぇけど、あいつが言うには、すげぇもんらしい」  エリの言いように、ピアズは苦笑した。 「おまえはよく、そんなよくわからないものに賭けようなどという気になるな?」 「だって、あいつはオレたちの仲間だぜ。仲間を信用しなくて、どうすんだよ」  ピアズは肩をすくめる。 「おまえたちは単純だな。それで世の中が渡っていけると思っているとは、頭の芯までおめでたくできているんだろう」  その言葉にエリは、ケッと吐き捨てた。 「放っとけよ。オレはあんたとは違う。たとえ一生|贅沢《ぜいたく》できるだけの金をくれると言われたって、オレは絶対、あんたみてぇにはならねぇよ」 「なろうとしても無理だろうな」  頬を歪めて笑ったピアズは、まあいいと軽く手をふった。 「半年すれば、船が帰る。その積み荷の中から、あの金属をいくらか分けてやろう」 「なんだ、半年も待てってのかよ」 「残念ながら私の手もとには、小さなナイフと、ライス領主からいただいた置物しかないんだ。まさかそれを潰して、何やらわからぬ装置にしてしまうわけにはいくまい」 「わかったよ。仕方ねぇな」  うなずいて青年は立ちあがった。 「船が戻ったら、分けてくれ。んじゃ、そういうことで——」  足どりも軽く部屋を出た青年に、家令があわてて案内しようと駆け寄ってきた。青年と家令が気軽く交わす声が、ゆっくりと遠ざかっていく。  もし生まれた場所が異なれば、自分も彼のようになっていただろうか——ふとピアズはそう思い、金銀の刺繍をした眼帯を指先でおさえた。  いや、きっと彼のようにはなれなかっただろう。あの青年が仲間を信頼する根元のところには、赤毛の親友の存在がある。親友との五年間の交誼《こうぎ》が、彼の現在の性格を形成したに違いない。互いに信頼しあい、互いを大切に思う気持ちが。 (私にはそんな相手はいなかった……)  窓の外から、祭に浮かれた人々の笑い声が聞こえてくる。ピアズは苦々しい思いで、グラスに酒を注ぎ、ひと息に飲みほしたのだった。      3  五日間にわたる祭の最高潮は、四日目の朝から始まる「お召し船の進水」である。  百年以上も続けられているこの儀式は、海へ貢ぎ物をささげ、デルマリナにあるすべての船が安全に航海できるよう、海と契約を交わすのだ。その昔、デルマリナ議会の頂上に「正義の旗手」があったころはその者が、細かな彫刻がほどこされ金色に塗られた「お召し船」から海へむかって貢ぎ物を投げ入れたという。だが現在では、総務会に属する五人がその役目を共同で負っていた。  海に供物した「お召し船」は、大運河をさかのぼって議場前まで帰っていく。見物の舟もやはり「お召し船」に従い運河をさかのぼるため、それは豪華な行列となる。役目を終えた「お召し船」は、人々の見守る中、火を放たれ炎に包まれて沈んでいくのだ。 「おぐしに鏝《こて》を当てていただけないのなら、せめて結わせてください!」 「髪粉もつけていただかないと、恥をおかきになるのは、だんなさまですよ!」 「靴はこちらの、真珠がついたものをお履きください! ああ、そんなふうに腕をお曲げになったら、皺になってしまいます!」  家令たちの悲鳴のような声に、ピアズはこそこそと部屋を逃げ出した。  総務会を構成する五人の中のひとりであるピアズは、「お召し船」に乗るため非常な忍耐を強いられていた。「お召し船」に乗る者は、百年前から決められている盛装を義務づけられているのである。  熱くした鏝を当てて髪を整え、白い髪粉をつけ、暑い最中だというのに刺繍の入った礼装用の白いベストに、黒地に金銀の刺繍をほどこした上着、そのうえに絹地のマントまではおらねばならない。装飾品はすべて、真珠や珊瑚《さんご》など海でとれたものであること。靴下は必ず白絹で、靴は踵《かかと》の高い仔牛革製。 「冗談じゃない……!」  これでは見世物か道化ではないかと、ピアズは拳を握りしめた。きっとマリナがそばにいたなら、父のこの姿を見て大笑いしたに違いない。  とはいえ、義務は義務である。いったんは逃げ出したピアズも、渋々ながら決まりの盛装に身を包み、「お召し船」の待つ港へと向かったのだった。    * * * 「よくお似合いですよ、ピアズどの」  ようやく船に乗り込んだピアズは、すでに船上の椅子に優雅に腰かけ、同僚たちと祝いの杯を手に談笑していたエルバ・リーアにそう言われ、顔をしかめた。 「自分のことは自分がいちばんよく、知っております。私がこんななりをしても、道化にしか見えないでしょう?」 「ご謙遜をおっしゃらなくても」 「そうですよ。ピアズどのは逞しい体格をしていらっしゃるので、何をお召しになられても似合いますぞ」 「まったく羨《うらや》ましい限りですよ」  エルバ・リーアの尻馬に乗って、他の面々までが口々に褒める。とはいえただ褒めているわけでなく、ピアズを逞しいと言うのは暗に、伝統ある家柄の商人である自分たちとは違う、と蔑《さげす》んでもいるのだ。  孤児として肉体労働で日銭を稼ぎ、のちにダイクン家に雇われたあとも、船の荷積みや荷おろしを手伝っていたピアズは、名門の商家に生まれ、乳母《おんば》日傘《ひがさ》で育ったかれらとはあきらかに違う。あるじに商才を見込まれたピアズは、ひとり娘と結婚することで、ダイクン家を継いだのである。綿花のみを商う、小アルテの中でもごく零細であったダイクン家をここまで成長させたのは、ピアズの才覚によるものだった。 「——おお、そろそろですな」  同僚の声とほぼ同時に、あたりに鐘の音が鳴り響いた。 「ピアズどのも、お座りください」  促されてピアズは、エルバ・リーアの隣の椅子に腰をおろす。  このエルバ・リーアは、デルマリナでも五指に入る名家に生まれた男だ。そのうえピアズに匹敵する商才をもち、名家の上に安穏《あんのん》することなく、勢力をのばし続けている。ハイランドとの交易に端を発した政治抗争では、一時はピアズと手を組みもしたが、現在では表向きにも水面下でも、ピアズにとって最大の敵であるといえるだろう。  鐘の音がおさまると「お召し船」はゆっくりと動きはじめた。  帆船ではなく、古代の手漕ぎ船だ。右舷に十七本、左舷にも十七本の櫂が、船の腹から突き出している。船倉には、三十四人の漕ぎ手がずらりと並び、艇長の掛け声にあわせて櫂を操る。ザッザッと海水を掻く音と、船の軋む音がまるで互いに追いかけあうように聞こえた。  港を出た「お召し船」は、多くの帆船や小舟がすでに待機する海域まで進んで、やはり昔ながらのいびつな形をした錨《いかり》をおろした。いよいよ、海と契約をむすぶ儀式の始まりである。  ふたたび鐘の音が鳴り響く。それを合図に総務会の五人は船首へと進み、用意された供物を手に取った。 「海よ、我は汝《なんじ》と契約する——」  最初のひとりが海の上に手をかざし、契約の文句を唱えはじめた。彼の手にあるのは、掌ほどの大きさの黄金の硬貨である。表面には一流の細工師の手により、デルマリナの紋章が刻まれている。  金貨が海に投げ込まれると、周囲を取り巻く船々から拍手と喝采がわきおこった。  続いて黄金のペンが、契約の言葉とともに海へ投げ込まれる。三番目には、黄金と宝石で飾られた冠が投げ込まれた。  四番目は、ピアズが黄金の指輪を手にして進み出た。 「——真に永遠に、汝が我がよき盟友であるように」  最後は、エルバ・リーアが黄金でつくられたデルマリナの印章を投げ入れることになっていた。だが彼が前へと進み出た瞬間、近くに停泊する見物の舟から、卵が投げつけられたのだ。  避ける間もなかった。卵はエルバ・リーアの胸もとに当たって割れ、黄身と自身の混じったどろりとした汁が周囲に飛び散った。  愕然《がくぜん》として声も出ないエルバ・リーアに、続けざまに卵や熟した果実、石つぶてや鼠《ねずみ》の死骸などといったものが投げつけられる。 「ひ……っ!」  鼠の死骸が頬に当たり、エルバ・リーアは腰をぬかしてその場に座りこんだ。同僚たちはあたふたと腰を泳がせて、椅子や木箱の陰へと隠れた。  だがピアズひとりは、マントを引き千切るように脱ぎ、それを振り回して投げつけられる品々をたたき落とした。そして、腰をぬかしたまま動くこともできないエルバ・リーアに手をさしのべる。  エルバ・リーアを避難させると、ピアズは船縁に立ち、周囲の船々を睨みつけた。 「かようなまねをして儀式を汚すとは、どういうつもりかっ!」  雷鳴のようなピアズの声が響き渡ると、投擲《とうてき》がぴたりと止んだ。 「——儀式を汚してるのは、エルバ・リーアの野郎だ!」  ややあって、舟のひとつから声が返ってきた。赤や黄色の布で飾りたてたその小舟には、卵を手にした四十がらみの男が立ち、「お召し船」の船上を指さしている。 「どういう意味だ?」 「デルマリナの船の安全を願う儀式だろう、これは! だのにエルバ・リーアは、我々の船を海賊どもに襲わせている!」  ピアズの問いに、その男が叫んだ。それに呼応するかのように、別の声が叫ぶ。 「海賊どもに襲われて、積み荷を奪われ、私は破産したんだ!」 「俺の店に入るはずの品が、海賊どもに奪われてしまった! 俺はもう店を開けることもできない!」 「うちの船の荷が奪われたために、エルバ・リーアの野郎は、シバ茶の相場を独占しやがった!」  ふたたび投げつけられた卵を、ピアズは片手で払い落とした。 「エルバ・リーアどのがやったことだと、確かな証拠でもあるのか?」  ピアズの問いかけに、男たちは口を噤《つぐ》み、互いに顔を見合わせた。 「憶測で、他人を非難するのか? もし非難するに足る理由があるならば、大評議会に訴え出よ」 「議会なんて、あてになるもんか……!」  吐き捨てるように言った男へ、ピアズは視線を向ける。瞬間、男はたじろいだものの、すぐに顔を歪めて身を乗り出した。 「エルバ・リーアは、議会の実力者だ。俺なんかが訴え出たって、どうせ、エルバ・リーアが金をばらまいて捻《ひね》り潰《つぶ》すに決まっているだろうが!」 「では、私に訴え出ろ」  ぐいっと自分を指さし、ピアズは言い放った。 「私はあなたたちの訴えを、決して捻り潰したりはしない」  総務会の五人はそれぞれ、とりあげる議題を選ぶことができる特権をもつ。 「——本気で言ってるのか?」  そうだ、とピアズがうなずくのを見て、人々はまた互いに顔を見合わせた。船体に寄せる波の音に混じって、あちこちで囁き交わす声が聞こえる。そんな人々をピアズは、怯《おび》えも気後れも見せず、胸を張って見おろしていた。  ピアズにくってかかった男も、そばにいる男と言葉を交わし、やがてうなずきあうと、「お召し船」へ向き直った。 「わかった。ピアズどのを信用しよう」  ぱらぱらと拍手の音がした。やがてその音はゆっくりと波のように、次第に大きくなりつつ広がっていった。  拍手の渦の中、ピアズはマントを肩にかついで同僚たちのもとへ戻る。 「エルバ・リーアどの、儀式の続きを」  しかしエルバ・リーアは、強張った表情のまま小さくかぶりをふった。椅子や木箱の陰に隠れる他の同僚にも視線を向けたが、かれらはことごとく目をそらした。  ピアズは軽く舌うちすると、エルバ・リーアから黄金の印章を受け取った。そしてそのまま、船首へと向かう。 「海よ、我は汝と契約する」  朗々としたピアズの声が響いた。 「真に永遠に、汝がよき盟友であるように……」  ピアズが印章を投げ入れると、どっと海鳴りのような拍手と歓声があがった。ぐるりと周囲を見渡したピアズは、目を細めて微笑んだ。その姿に、拍手と歓声がますます大きく強くなる。  人々の歓声は、ピアズが椅子にどっかりと腰をおろしたあとも、そして「お召し船」が大運河をゆっくりとさかのぼる間も、止むことはなかったのである。    * * *  職員たちに両肩をささえられながら「お召し船」を降りたエルバ・リーアは、議場前の広場を横切らねばならないと聞いて、怒鳴り散らしはじめた。広場には祭にあわせて多くの露店が出ているうえ、「お召し船」に火がかけられるのを見物しようと集まった市民たちの数も相当なものだった。そこをわずか数人の職員とともに歩けとは、いったい自分をなんと考えているのか、と言うのである。 「嫌だ、私は絶対に嫌だぞ!」  議場の一室に休憩所を用意してあるので、と職員は説得しようとするのだが、エルバ・リーアは頑として聞こうとしない。 「休憩所など、要するに茶と菓子が用意してあるだけの、埃《ほこり》臭い部屋だろうが!」  すぐに自分の邸に使いを出し、家令どもに舟を用意させるのだ、と怒鳴る。乗った者が外からは見えない屋根つきの舟で、一刻も早く邸に戻りたいらしい。  職員たちは、困りはてた。海との契約の儀式は、「お召し船」が燃えつきてやっと終わったことになる。だのにここでエルバ・リーアに帰宅されては、儀式がちゃんと終わったと言えなくなるのだ。 「うちの家令を呼ばないうちは、絶対にここを動かないからな!」  最後に船を降りたピアズは、駄々っ子のように怒鳴るエルバ・リーアを目にして、苦笑を禁じえなかった。  育ちのいい彼には、これまで今日のようにあからさまな敵意を向けられたことなどなかったのだろう。商人たちはエルバ・リーアに睨まれては商売が立ち行かなくなると、いつも彼の機嫌をうかがっていたし、エルバ・リーアと対抗できる財力と商才をもつ者は、過去、彼とピアズが結託して隠居にまで追い込んだ老人ひとりだけだったのである。  ピアズは職員のひとりを手招きして呼び寄せると、 「手数だとは思うが、いま議場にいる職員全員をここへ連れてきなさい。何人ぐらいいるのかな?」 「我々を含めると、三十五、六人です」 「それでは足りないな……。ああ、じゃあ船倉で漕ぎ手をやっていた者たちがいたな、かれらにも頼もう」 「私たちは何をすれば……?」 「エルバ・リーアどのの周囲を何重にもとりかこんで、議場までお連れするのさ。護衛が七十人もいれば、エルバ・リーアどのも動いてくださるだろう」 「ああ、そうですね! わかりました」  すぐさまその職員は同僚を呼びに走り、別の職員はピアズに「護衛代だ」と渡された金を持って、漕ぎ手たちを雇い入れるために船倉へ降りていった。  七十人からの護衛に、エルバ・リーアも議場へ向かうことを納得した。総務会の他の面々も、エルバ・リーアほどではないがやはり怯えがあったのだろう。自分たちも守ってもらいたいと申し出て、受け入れられた。  その結果、議場前広場を奇妙な大群が横切ることとなったのである。市民たちは、あれは何だと不思議がり、「お召し船」上での騒動を知る者は知らない者に得意げに教え、大群が議場へ入るころにはもう、広場にいるだれもが騒動からこの護衛の大群にいたる一部始終を知ってしまったのだった。  議場の建物に入ると、エルバ・リーアはすっかりいつもの調子を取り戻した。  二階に用意された一室に腰を落ち着け、職員たちが運んできたお茶を飲みながら、 「最初に卵を投げたあの男、確か大アルテでしたよ」  話しかけてきた同僚に、ふふんと鼻先で笑ってみせる。 「知ってますよ。大アルテといっても、シバ茶の取り引きを細々とやっているだけの、実質的には小アルテの商人どもとほとんど変わらぬ男だ」 「どうしますか?」 「もちろん放っておくはずはありませんよ。これだけ恥をかかされたのですからね」  見おろしたエルバ・リーアの胸もとには、職員が懸命に拭ったとはいえ、卵の染みが大きくできている。 「これは私に対するばかりでなく、総務会全体に対する暴挙ですよ」 「そうですとも! 鼠の死骸が足もとに転がってきたときには、私もあまりの憤りに身体が震えました」 「総務会に対するばかりではありませんぞ。連中は伝統ある�お召し船�を、なまの卵だの鼠の死骸などで汚したのですからな」 「言えますな。連中はデルマリナ議会へ反旗をひるがえしたのだと、そう考えてもよろしいのでは?」  四人の男たちは口々に非難し、意見の一致をみると、この部屋へ入ってからまだひとことも口をきいていないピアズにそろって視線を向けた。 「ピアズどのは、どうお考えですか?」  エルバ・リーアが、窓際で茶器を片手に持って立つピアズに話しかける。 「もちろんピアズどのも、我らと意見を同じくするでしょう?」  別の同僚にも話しかけられ、ピアズは軽く手をあげた。 「——ああ、やっと火が放たれましたよ」  ピアズの言葉に、エルバ・リーアを除く三人が身を乗り出し、窓の外を見やった。  黄金色の「お召し船」が、黒煙を吹き出している。船内にも甲板にも油がまかれているため、最初はちろちろと見えていただけの火も、たちまち全体に燃えひろがった。炎の勢いは凄じく、広場をはさんだこの部屋まで火の熱さが伝わってきそうな気がする。  広場では何百人もの市民たちが、手をたたき歓声をあげて、燃える「お召し船」を見物していた。船乗りたちの間では、この燃えかすを自分たちの乗る船に持ち込めば、その船は火災にあうことも、嵐で沈没することもないと言われていた。そのため、より大きな燃えかすを手に入れようと、かれらは髪が焦げるほど近くで燃えあがる「お召し船」を見物し、鎮火する前にもう先を争って船へと殺到するのである。 「いやいや、野蛮な連中ですなぁ」 「毎年のように見ていますがね、いつぞやは大きな燃えかすを争って、大喧嘩がはじまりましたよ」 「あんな汚いものを、よくまあ……」  連中の気がしれないと、名門の商家出身の男たちは肩をすくめる。 「ピアズどのも、そう思われませんか?」  同僚に話を向けられて、ピアズは軽く眉をあげた。 「私など不調法なもので、祭に散財する市民たちの気持ちが、長くわかりませんでしたが——かれらにとって祭は、数少ない娯楽なのですね。市民たちのほとんどが一年間、祭の日が来ることだけを楽しみにして、汗を流して働き日々を暮らしているでしょう。この歳になってやっと、かれらの気持ちがわかるような気がしますよ」  それに、とピアズは燃えあがる「お召し船」を指さした。 「船乗りたちの験かつぎには、私も一口乗りたくなりますね。船主としては、頼むから私の船だけは火災がおきたり嵐で遭難・沈没しないでくれ、と真剣に願いたくなることが多々ありますから」 「ああ、それは私も思うときがありますよ。海が荒れているときなど、心配でいても立ってもいられなくなる」  笑って同意した彼は、他の同僚たちの冷たい視線に、あわてて口を噤む。 「——ピアズどの」  エルバ・リーアがゆっくりと茶器を卓に置き、目を細めてピアズを見つめた。 「まさかとは思うが、船上で暴徒どもに言ったように、やつらの訴えを議会でとりあげるようなまねは、なさいませんよね?」  ピアズは窓に背を向け、エルバ・リーアを見返した。 「なぜ、私がしないと言うのですか?」  問い返す形をとったその言葉に、三人の同僚たちがぎょっと目をみひらいて互いに顔を見合わせる。 「ピアズどのは、もっと利口な御仁だと思っていましたよ。あのような小物どもの機嫌をとったとて、なんの得にもなりはしないというのに」  それとも、とエルバ・リーアはうっすらと笑みを浮かべた。 「祭ごときに喜ぶ市民どもをご覧になって、昔のご自分を思い出されたのかな? 下町を這いずりまわるどぶ鼠のようだった、汚らしいご自分の姿を」 「——そうかもしれませんね」  憤ることもなく、エルバ・リーアを睨みつけるでもなく、あっさりとピアズはうなずいた。  窓の外では黒い骨となった「お召し船」がゆっくりと、くずれ落ちようとしていた。      4  煤《すす》けた匂いのたちこめる広場を横切り、待ち構えていた小舟に乗ったピアズは、マントも上着も脱ぎ捨てた。  運河は、祭最後の夜を楽しもうとする人々の舟が繰り出して、ごったがえすほどの混みようである。笑いさんざめく声、酒や食べ物を売る声、だれかがかき鳴らす弦の音、それらが水面にはねかえって反響する。  まわりの飾りたてた舟に比べて、櫂と舳先《へさき》に布を巻いただけのピアズの舟は地味さで目立つのか、邸へ戻る間に方々からひっきりなしに挨拶の声がかかった。そのほとんどが、ピアズも名を知らない市民たちである。舟を近づけて、よく冷えた水飴《みずあめ》だとか、香ばしい焼き林檎《りんご》だとかを、ピアズに手渡してくれた者もいた。  挨拶してくれる人々に、ピアズは愛想よく挨拶を返し、いつもの何倍もの時間をかけてようやく邸に帰り着いたときには、すっかり日も暮れていた。邸内に入るとすぐさまピアズは、家令を呼んで命じた。 「先日うちに来た、エリ・タトルという若者を捜せ。デルマリナ市街にいるはずだ」  祭の最中である。家令はあるじの無茶な命令に、大きく目をみひらいた。 「急いでいるんだ。絶対に今日明日中に、捜し出せ」  あるじが本気だと知ると、家令はすぐさま駆けていった。  総力をあげて捜したのだろう。家令がピアズの寝室の扉をたたいたのは、空が白みはじめた夜明け頃だった。 「お捜しの若者を、お連れしました」  憔悴《しょうすい》しきった顔でそう告げた家令をねぎらい、ピアズは寝間着の上にガウンを羽織っただけの姿で、エリ・タトルを待たせている事務所兼書斎へ降りていった。 「お楽しみのところを、悪かったな」  ピアズが言うとエリは、その通りだといわんばかりに顔をしかめた。 「綺麗どころを揃えて、すげぇ盛りあがってたんだぜ。もう行くのかって泣いてとめる女を、振り切ってさぁ。オレがどんなに辛かったか、おっさんにわかるかよ?」  責める言葉を右の耳から左の耳へ聞き流して、ピアズはずっしり重みのある袋を書きもの机の上にどんと置いた。 「中に、金貨が三十枚ほど入っている」  ピアズの言葉に、エリは口を噤んで目をみひらいた。 「これは、前金だと思ってくれていい。もし私の依頼が成功したら、やはり同じ枚数の金貨をくれてやる」 「金貨だって? 銀貨じゃねぇのか?」 「ああ。報酬としては破格だと思うがね」  ごくっと喉を鳴らして、エリがピアズの顔を見つめる。 「こんだけの報酬を出そうってんだ、よっぽど難しい仕事なのかよ?」 「おまえたちにとっては、さして難しくもないだろう。いつもやっている、おまえたちが生業としていることをやればいいだけなんだからな」 「船を襲えって……?」  そうだ、とピアズはうなずいた。 「ただし時間がない。できるだけ速やかに、この五隻の船を襲うんだ」  言ってピアズは書きもの机の上に、紙をひろげた。それには船の航路と、予想される到達日が記してある。 「なんだよ、こりゃ……!」  紙をのぞきこんだエリが、声をあげた。 「こっちの海域からあっちの海域まで、たった半日で行けってのか? この船だって、一日っきゃ余裕がねぇじゃねぇかよ。もしこの船が遅れてたりしたら、絶対に間に合わないってぇの」 「だから、時間がないと言っただろう」  紙に記された船はすべて、議会でもそれなりの発言力をもつ大アルテ商人たちの所有するものだ。 「それから——いつものように、捌《さば》き易《やす》い積み荷だけを奪うのではなく、船に積んである荷はすべて、ごっそりと奪うんだ。もし捌く方法に困るようなら、私がすべて買い取ってやる。つまりおまえたちは、報酬をもらったうえに、積み荷まですべていただけるというわけだ」  青年はまじまじと、ピアズの顔を見つめた。眉根が寄り、紫の目が細められる。 「——どういうことだ? あんた、いったいなに考えてる?」 「おまえに説明する必要はない」  書きもの机をはさんで、ふたりはしばらく睨みあっていた。先に視線をはずしたのは、エリ・タトルだった。 「まあ、いいや。どうせおっさんは、いっつも何か企んでるほうが、らしいもんな」  青年は椅子に腰をおろすと、組んだ足をぐっと胸もとに引き寄せた。 「ひとつ、オレのほうにも条件がある」 「条件だと?」  こんな割りのいい仕事に条件をつけるとは、いったいどういうつもりなのか。 「実はさ、うちのダーリオのやつが、鍛冶屋の工房がひとつ欲しいって言うんだ。例の新しい装置ってやつ、あれ作るにはどうしても鍛冶屋の設備がいるんだとさ。ところがオレたちはこの通り、お尋ね者だしな。得体の知れねぇやつがいきなり訪ねてきて、工房を貸してくれって言ったって、そりゃ無理な話ってもんだ。特に鍛冶屋とか職人たちは、自分とこの工房を大切にしてるからな」 「——わかった。私が手配させよう」  やったね、とエリは立ちあがった。 「契約成立ってやつだ」  そう言ってふいに、青年は吹き出した。 「なんだ? 何がおかしい?」 「いや、ちょっとさ、昼間のおっさんの格好を思い出したんだよ。海との契約ってやつだっけ? ありゃ、なんだよ。髪に白い粉くっつけて、びらびらしたシャツ着て、あの上着も笑えたなあ」 「…………見てたのか?」 「そりゃ最大の見物だって話だったんで、仲間と舟を借りて、わざわざ行ったさ。うん、確かに最大の見物だったよなぁ。おっさんのあんな格好が見れるなんてさ。オレなんか腹抱えて笑いころげて、危うく舟からおっこちそうになったぜ」 「言うな!」  ピアズが憮然として言い放つと、青年はますます笑い転げた。 「いやいや、おっさんも実は恥ずかしかったんだ? だろうなぁ、オレだってあんな格好させられたら、すげぇ嫌だもんな」 「黙れと言っている」 「悪りぃ、悪りぃ。でもさぁ……」  笑いがとまらない様子の若者に、ピアズは金貨の入った袋を投げつけた。「おっと」とつぶやいて袋を受けとめた彼は、書きもの机にひろげた紙を掴むと、身軽な動作で部屋から走り出ていった。  開け放った扉のむこうから、遠ざかっていく青年の笑い声がずっと聞こえていたことは言うまでもない。    * * *  祭が終わったデルマリナ市街は、昨日までの喧噪《けんそう》が嘘だったかのように、なんでもない日常へと戻っていた。  とはいえ、噂好きのデルマリナ市民たちである。  朝から寄るとさわると話し込み、特に大きな祭のあとだけに、噂にする話題にはことかかなかった。 「やっぱりピアズさんは、ご立派だったねぇ。こう�お召し船�の上で、すっと立ってまわりの舟を見おろした姿なんか、震えがきちまったよ」 「そりゃあピアズさんは、なまっ白い強突張りの商人どもとは違うさ。ちっとも偉ぶらないしねぇ、あたしたちにだって気軽に声をかけてくださる」 「だよねぇ。それに比べてさぁ——あんた、あのときのエルバ・リーアさんの顔を見たかい?」 「腰ぬかしらまったんだろ。情けないったらありゃしないよ、まったく」 「なんでも、ひとりで�お召し船�から降りられなかったそうだよ。だいたいありゃあ、自分で招いた結果ってやつだろう? 海賊なんぞ使って、他人を破産させといてさあ。恨まれたって仕方ないじゃないかねぇ」 「やっぱり�ゴランの息子たち�って、エルバ・リーアさんの手先だったのかね?」 「そうに決まってるじゃないか。じゃなかったらなんで、だいじな儀式の最中にエルバ・リーアさんが、卵だの鼠の死骸だのを投げつけられるのさ」 「だってさ、エルバ・リーアさんといや、切れ者で有名だったじゃないか。デルマリナでいちばんの商売上手、って言われてたし。そんなおひとが、商売の競走相手を蹴落すのになんで、海賊なんか使うんだい?」 「ほんとは全然、切れ者なんかじゃなかったってことさ。うちのうすのろ亭主だって、腐るほど金がある家に生まれてりゃ、ひとさまから切れ者だって言われてたかもしれないよ。金がありゃあ、ひとさまの評価なんてどうとでもなるんだよ」 「あんたんとこの亭主がねぇ……。亭主といえば、うちのろくでなしが港で聞いてきた話なんだけどさ。例の�ゴランの息子たち�がまた、船を襲ったらしいんだよ」 「へぇ。こんどは、どこの船だい?」 「ほら、伊達者《だてもの》だって有名なおひとだよ」 「ああ、議会いちばんのお喋りだね。確かちょっと前に、知り合いが宴会に自分をよばなかったからって怒って、おそろしい仕返しをした男だろ?」 「それだよ。あんときはなんでも、議会で悪い噂をふれまわって、相手をどっかの組合長の席からひきずりおろしたんだってね」 「ってことは、今度はもっとすごい仕返ししそうだねぇ」 「仕返しって、�ゴランの息子たち�にかい?」 「なに言ってんだい。エルバ・リーアさんへに決まってるだろ。こりゃちょいと、楽しみだねぇ」  海賊「ゴランの息子たち」はそのあとも、いっそ勤勉なほど強奪行為を繰り返した。わずか四日のあいだに、五隻もの船を襲い、積み荷をことごとく奪い去ったのである。  襲われたのは、大アルテの中でも資産家な商人たちの持ち船で、海との契約を妨害した者のように、そのため破産するような事態には至らなかったが、それでもかなりの被害であったことは否めない。デルマリナ市民たちは、海賊に襲われた船主たちがいかなる言葉でエルバ・リーアを罵《ののし》ったか、おもしろおかしく噂しあった。  そんな中、祭で中断されていたデルマリナ大評議会が開かれたのだった。  最初に議題とされたのは、前回の議会から予定されていた、ピアズ・ダイクンが申請した新しい造船所と鍛冶工房の認可である。可をしめす白い石、否をしめす黒い石が投票箱に投げ込まれ、その場で開票して結果報告が行なわれる。  結果は、白い石が大多数を占め、ピアズは議会の承認のもと、造船所と鍛冶工房を営業できることとなった。  本日予定されていた議題はそれだけのはずだったのだが、緊急に議決をもとめるとしてエルバ・リーアが、先ほどの祭で海との契約を妨害した者の議席|剥奪《はくだつ》要求を訴え出た。  やはり白と黒の石による投票が行なわれ、その場で開票された結果、わずかな差で黒石が競り勝った。エルバ・リーアはこれを不服として再度の投票をもとめようとしたが、それより先にピアズ・ダイクンが、エルバ・リーアの総務会解任を訴えたのだった。  議場は騒然となった。エルバ・リーアは、正気を疑うとピアズを声高《こわだか》に非難した。 「けれど、ピアズさんにエルバ・リーアのことを訴えたのは、ひとりやふたりじゃなかったんだよ」  深夜になってようやく自宅へ帰ることができた議員たちは、興奮さめやらぬ様子で家族にそう話したという。 「こんなときピアズさんには、たいてい小アルテ議員たちだけが味方につくんだがね。ところが今回は、大アルテ議員の主だったひとたちが大勢ピアズさんの側についたんだ」 「どうして?」 「例の海賊の被害にあったのは、船を持っている大アルテ商人たちだからね。そんなかれらが、エルバ・リーアにつくはずなどないというわけさ」  実際のところ、ピアズに訴えを出したのはわずか七人の大アルテ議員たちである。だがその七人にはそれぞれ、意見を同じくする数十人の仲間があり、ピアズは小アルテ議員たちの票を全部と、大アルテ議員たちの票の三分の二までを得ることができたのだった。  この件で、議会の勢力図は一変した。  それまでピアズ・ダイクンとエルバ・リーアのふたりが拮抗《きっこう》する二大勢力をつくっていたものが、天秤《てんびん》の針はピアズ・ダイクンの側に大きく傾いたのだ。エルバ・リーアは先祖より五代にわたって務めていた総務会を退き、代わってピアズ・ダイクン派の最右翼と目されていた大アルテ議員が、あらたな総務会の一員として加わったのである。 「まったくピアズ・ダイクンという男は、たいしたものさ。たぶんデルマリナ評議会史上で、小アルテ議員たちを味方につけることでここまでのしあがったのは、彼が最初の人物じゃないかな。ピアズ・ダイクンがやってのけるまで、小アルテ議員など議会運営になんら影響を与えることもできない存在だと思われていたからね」  議員たちはこの日のできごとを、家族にそう語って締め括った。 [#改ページ]    第十七章 天涯を照らす光      1  ロト・ライスの葬儀の知らせはすでに、ミリオ・ライスの名で各領主のもとへ届けられていた。その後、末弟のケアルが兄のミリオに替わってライス領主代理となったらしいという情報が、各領主の先触れとしてライス領公館を訪れている重臣たちにより、各領へと伝えられた。しかしその情報は、正確なものとして受け取られはしなかったようだ。  その理由はまず、ケアルが三兄弟の末弟であること。長男が死亡したのちは、次男が家督を継ぐのが常識である。その次男のミリオが死亡したわけでもないのに、末弟のケアルが家督を継ぐなどという事態は当然ありえない。そのうえこのケアル・ライスが、島人の女を母にもつことは、衆知の事実である。まさかそのような人物が、一領の統治者の座につけるはずがない。  おそらくこれは、一時的な措置なのだろう。次男のミリオが病に臥したかして、ロト・ライスの葬儀に出席できる状態ではなく、かといっていまさら葬儀を延期するわけにもいかず、この緊急事態に対応するため末弟のケアルが一時的に領主代理を名乗っているにすぎないのだろう。情報を受け取った人々がそう考えたのも、無理からぬことだった。 「フェデ領主、リー・フェデさまがご到着なさいます」  家令の知らせに、ケアルは急ぎ執務室を走り出た。 「若領主さま、上着を……!」  あわてて家令が追いかけてくるのへ、すまないと謝って上着をはおる。 「おぐしも、整えてください。それから、衿《えり》もしっかりとお締めになって」  口うるさく言う家令に苦笑しながら、髪は手のひらで撫でつけ、寛《くつろ》げた衿もとを見苦しくない程度に直す。フェデ領主は礼儀や作法に厳しい男だ。くだけた格好で迎え出るようなことをすれば、自分を侮辱するのかと怒るだろう。  どうにか身なりを整えてケアルが外に出ると、そこにはすでに、ライス領の家令たちがずらりと並んでフェデ領主の到着を待ち構えていた。 「間に合ったかな?」  肩で息をし訊ねた若領主に、家令は好ましげな笑みを浮かべ、前方をしめした。 「だいじょうぶです。もうしばらくかかりますよ、きっと」  相変わらずというべきか、フェデ領主は今回も二十数人からの従者を引き連れてやって来た。領主としての血統の良さを誇りとするリー・フェデは、ことあるごとに人々にそれを見せつけないではいられないらしい。 「心なさってください。きっと最初から嫌味な言葉をならべたてますよ」  家令が予言した通り、到着するなりフェデ領主は出迎えの人々を見回し、あからさまに顔をしかめた。 「ミリオ・ライスどののお顔が見えぬようだが、このフェデ領主の出迎えにも足を運べぬほどお忙しいのか?」 「申し訳ございません」  ケアルは前に進み出て、頭をさげる。 「このたびの葬儀は、若輩者ではありますがこの私が仕切らせていただくことになりましたので——」  なんと、とフェデ領主はわざとらしく目をみひらいた。 「島人が領主の葬儀を仕切るとは、世もすえと言うべきか。それともライス領では、それが当り前のこととおっしゃるか?」 「——フェデ領主さま」  リー・フェデの言葉に、ケアルのすぐうしろに立つ家令が前に進み出た。 「我らの若領主は、ロト・ライスさまの血をひく確かなご子息でいらっしゃいます。島人などではございません」  あわててケアルが目顔でたしなめたが、もう遅かった。リー・フェデはたちまち表情を険しくし、前に立つケアルと家令を交互に見やった。 「若領主、だと……? いま、若領主と言ったな?」  リー・フェデの口髭が細かく震える。 「どのような理由あって、この者を領主と呼ぶのだ? 私の知る限りだれであろうと、就任式をとりおこない、他の領主の承認を得て初めて領主と呼ばれる資格をもつはず。フェデ領主たるこの私は、この者を領主と認めたおぼえなどないぞ」 「失礼いたしました。家令に代わって、お詫びいたします」  あわてて謝罪したケアルにフェデ領主は、汚いものでも見てしまったかのように顔をそむけた。 「島人の血が混じった者などをのさばらせておくから、かように家令どもまでが卑しく無礼になるのだ」  だれか、とリー・フェデは声をはりあげ、出迎えの家令たちを見回した。 「ミリオ・ライスどののもとへ、この私を案内せよ!」  その言葉にざわついた家令たちを、ケアルはさりげなく目顔でしずめて、近くにいる別の家令に耳打ちした。 「フェデ領主どのを、兄上のお部屋までご案内してくれないか」 「よろしいのですか?」  だいじょうぶだとケアルがうなずくと、その家令はフェデ領主に案内役を申し出た。案内役を先に立てて公館へ入っていくフェデ領主とその従者たちを見送って、ケアルは深くため息をついた。 「申し訳ありません、私がよけいな差しで口などしたがために……」  恐縮しきって、フェデ領主の怒りをかった家令が低く頭をさげる。 「いや、気にしなくていいよ」  ケアルは笑って、かぶりをふった。 「しかし……」 「フェデ領主どのはきっと、おれが何をしようとお気に召さないさ。それよりおれを庇《かば》ってくれたおかげで、こんなことになって悪かった。かえって申し訳なく思うよ」 「そんな……ありがたいお言葉です!」  家令は肩を震わせ、ますます深く頭をさげたのだった。  ハイランドの最も北に位置するウルバ領からライス領へ来るには、合計三つの他領を横断しなければならない。陸路でのその煩わしさを避けたのか、ウルバ領主、オリノ・ウルバは海路をつかってやって来た。  領主の到着を知らせる先触れはなかったが、そんなものは必要なかったのだ。公館がある崖下を通りかかったときに、ウルバ領主は従者たちに大声で歌をうたわせたのである。あわてて公館から家令たちが駆けつけ崖下をのぞくと、三十艘も連なる舟の上から鬨《とき》の声があがったという。 「不謹慎にもほどがあります。無礼もはなはだしい。葬儀にやってきた弔問客であるという自覚がないのではありませんか?」  一部始終を見届けた家令が、憤りのあまりに拳を震わせ、そう報告した。だがケアルは笑って、 「それはきっと、ウルバ領主どの流の弔意のあらわしかたなんだよ」 「あれのどこがですか!」 「あのかたは、そういう御仁だよ」  ケアルが知る限りウルバ領主は、フェデ領主とは全く逆の性格だった。亡き父はオリノ・ウルバを称して、あの猪《いのしし》と呼んだが、なるほど言いえて妙である。礼儀や作法にはまったくの無頓着で、無法にふるまう自分をすばらしく男らしいと思っているようだ。また見た目通りの単純さで、細かなことには気がつかず、陰謀だの策略だのといった言葉とは全く無縁の男だった。  出迎えたケアルが、ウルバ領特産の酒をたっぷり用意してあると告げると、顔をくしゃくしゃにして喜んだ。 「では今宵は、亡きロト・ライスどのを偲《しの》んで飲みあかそうぞ!」  以前ケアルは、このウルバ領主と杯を酌み交したことがある。ウルバ領では、すすめられた酒を断ることは無礼とされており、また注がれた酒を飲みほしたあとは必ず返杯せねばならぬ、という決まりがあるらしい。ウルバ領特産の酒は、目にしみるほど強い蒸留酒で、たいていの男たちは杯を二度も干せば足腰が立たなくなる。それをケアルは、たっぷりと飲みほし、ウルバ領主をさえ驚かせたのだった。 「今度は負けはせぬぞ」  力こぶをつくって宣言するオリノ・ウルバに、ケアルは苦笑しつつ「お手柔らかに願います」と答えた。  マティン領からは、亡くなったレグ・マティンの長男と、ギリ老の妹婿でもある家令が肩をならべてやってきた。  父親に似て病弱な長男は、ライスとマティンは隣接する領だというのに、四人の従者の担ぐ輿《こし》に乗り、それでも息もたえだえになってようやく公館に到着したのだ。 「舟では酔ってしまいますし、輿もあまり乗り心地のいいものではありません」  青ざめた顔で言い訳する彼に、なるほどこの子息では領主の責務ははたせぬと、家令たちが彼の即位を反対する気持ちがわからないでもない、とケアルは思った。  後継者が定まらぬいま、レグ・マティンの正式な葬儀は延期されたままである。何ヶ月も前に亡くなったマティン領主より、つい先日息をひきとったライス領主の葬儀のほうが先におこなわれることに、かれらはなんとも複雑な思いを抱いているらしい。 「できるだけ早く、父を弔ってさしあげたいのですが……」  肩をおとしてそう告げる彼に、ケアルは「そうですね」と言葉を濁すしかなかった。    * * *  ミリオ・ライスのもとへ案内させたフェデ領主は、彼が病に臥しているわけでもなく元気な様子に、驚きを隠せなかったという。 「お元気そうで……いらっしゃいますな」 「なにが元気なものですか。そのへんに縄でもあれば、すぐさま首をくくって死にたいところですよ」 「これは……気弱なことを言われる」 「我が弟に、お会いになりましたか?」 「先ほど、お出迎えいただいた。しかしミリオどののお顔が見えぬので、不審に思っていたところです」 「その通りですとも。長兄なき今、次男のこの俺が、ご領主の皆さまのお出迎えにも行かないでは、礼を失していますからね。ところが我が弟は、そんなことにさえ気がつかないのだから……!」 「ミリオどの、島人の血が混じっている者などに、さようなことを期待しても無駄というものですぞ」 「そうですね。あんなやつが我が弟だと思うと、時に首のうしろあたりが粟《あわ》立《だ》つことがありますよ」 「ああ、そのお気持ちはわかりますぞ。我がフェデ領では、島人どもは公館に足を踏み入れることすら禁止しておりますからな。島人どもの顔など見たら、この身まで汚れるような気がします」 「さすがはフェデ領主どのだ。俺の気持ちがわかるのは、今となってはもう、フェデ領主どの以外にいらっしゃいませんよ。なにせこの公館の家令どもは、父上が産ませた子だというだけで、島人の血が混じった卑しいあの者を受け入れてしまっているのですから」 「それですよ、私が不審に思っているのは。なぜこちらの家令どもは、あのような者が領主顔をして客を出迎えることを許しているのですか? ロト・ライスどのの正統な後継者でいらっしゃるミリオどのを、かような場所に押し込んで——」 「いや、別に押し込まれているわけではありませんよ。ちょっとした理由がありましてね——まあ、自主的にしばらく謹慎しようかと思った次第でして」 「自主的に……? それはご立派な心がけと言えましょうが、いったいどのような理由があるんですか? お父上の葬儀が終わってからでも、よかったのでは?」 「いえ……それはですね……まあ、要するになんというか——そう、ギリ領主どのにお叱りをいただいたのです」 「ギリ領主どのに……?」 「そうです。お恥ずかしい話ですがね。先日デルマリナの船が、ライス領主代理である俺に会見をもとめてきましてね」 「なんと……デルマリナの船が、また来たのですか?」 「ええ。父が亡くなってすぐでしたので、喪中の身でもありますし、あまり気はすすまなかったのですが、我が弟が僭越《せんえつ》なことに了承の返事をしてしまったのですよ。あれでも我が弟ですからね、ライス家を名乗る者にまさか恥をかかせてはならぬでしょう?」 「ミリオどのは、お心が広い」 「ありがとうございます。——ところがですね、そのデルマリナの者どもがまあ、無礼なやつらでして。俺はライス領主代理として会ってやっているのですから、その俺に無礼をはたらいたということは、我がライス領を侮蔑したに等しいではないですか」 「いやいや。ライス領ばかりでなく、ひいてはこの五領をも侮蔑したと考えていいでしょうな」 「その通りです、フェデ領主どの!」 「それで、いかがされたのですか?」 「もちろん、黙ってなどおりませんとも。デルマリナの者どもに、罰を与えてやりましたよ。それがライス領主代理たる俺のつとめであると思いましたのでね」 「きっと私でもそうしましたよ」 「ところが、そこへギリ領主どのがしゃしゃり出てきましてね。俺の行為は間違っていると、あのご老人は言うのです。デルマリナのやつらに刃向かっては、どのような報復をされるかわからぬ、と」 「なんと……! ギリ領主どのはもっと気骨のある御仁と思っていたのに……」 「とんでもありませんよ。けれどね、俺がやったことでギリ領に害をおよぼすようなことになっては、やはり詫びのしようもないと思ったのです」 「それで自ら、こうして謹慎されているというわけですか?」 「ええ、その通りです」 「さぞお辛かったでしょう。ライス領ばかりでなく他領のことも思うそのお心、まさに領主たるにふさわしい。わかりました。フェデ領主たるこの私が、ミリオどののうしろだてとなりましょうぞ」 「ありがとうございます!」  ミリオの部屋の外でひそかに話を聞いていた家令の報告をうけて、ケアルは苦笑しながら頬杖《ほおづえ》をついた。 「まったく……! ご自分に都合のいいようにしかお話しなさらないのだから!」  そばでともに報告を聞いていた家令が、憤《いきどお》りもあらわに拳を握りしめる。 「それはそうだよ。ひとはたいてい、自分に都合の悪いようには言い訳などしないものだよ。それに兄上にしてみれば、今は謹慎しているだけであって、領主代理の肩書きを弟に一時預けているにすぎないと考えているのだろうね」 「まさか、そんな……!」  気色ばんで身を乗り出してきた家令たちに、ケアルは「まあまあ」と苦笑した。 「実際、兄上はまだ廃嫡されていない。廃嫡されていない以上、その見方は正しいんだよ」  後顧の憂いを断つために、新しい領主が決まるとそれ以外の者たちは、廃嫡されるのが通例となっていた。たいていは、ライスの姓を返してどこかの家の養子となる。だが廃嫡を決定できるのは、そのときの領主に限られていた。  ケアルがまだ即位式をおこなってはいない現在、ミリオを廃嫡できる者は存在しないのだ。 「——わかりました。百歩ゆずって、ミリオさまがおっしゃったことは、ミリオさまにとっての真実であったとしましょう。しかし、放っておいてよろしいのですか?」 「……というと?」 「フェデ領主どのが、ミリオさまのうしろだてとなる、とおっしゃったのですぞ。もしフェデ領主さまが、ミリオさまこそが正統なライス領主の後継者なのだからと、ケアルさまのご退陣をおもとめになったら……」 「それは困るな」  ケアルは椅子の背にもたれかかり、宙を見あげた。 「退陣をもとめられることそれ自体は、べつに構わないんだけどね。でも、そのためにこのライス領が、ギリ老だけでなくフェデ領主どのまでもの介入を許してしまう事態になることは、避けなければならないよ」  脳裏に浮かんだのは、青ざめた顔のマティン領主の長男である。いまだ政局の混乱が続くマティン領と同じ轍《てつ》を踏んでは、亡き父にも申し訳ない。そしてもちろん、領民たちに対して詫びようがなくなる。 「では、いかがされますか?」  家令がぐっと身を乗り出して訊ねる。 「私が愚考しますに——もしケアルさまが命じてくだされば、ひとを使って深夜にミリオさまの寝所に忍び込ませることも——」 「だめだ! なにを言い出すんだ!」  ケアルは手のひらを、書きもの机の天板にたたきつけた。 「もし今と同じことを——同じようなことをまた口に出すことがあったら、期限なしの謹慎を命じるぞ!」 「失礼しました」  深く頭をさげた家令は、一歩うしろへさがる。  ケアルが若領主と呼ばれるようになって数日経つが、今の申し出と同じことを考えている家令は多いだろう。つまり、ミリオ・ライスを亡きものにしようと。次兄を謹慎させているだけでは手ぬるい、領内を混乱させるような根は断つべきだ、と。  しかしケアルは、そんなことは決してしたくはなかった。いや、できなかった。確かに自分は、次兄から領主の座を奪った。だがそれと、領主という己が地位の安泰をはかるために次兄を弑《しい》することでは、全く意味が違う。そんな理由で実の兄を手にかけるという大罪を犯してしまった領主に、いったい誰がついてきてくれるだろうか。  今のところ家令たちも領民たちも、ケアルが若領主と呼ばれていることに表だって異をとなえる者はいない。だがそれは、ケアルにギリ領主のうしろだてあるからであり、老家令たちやマリナやオジナといった人々の助力によるものだ。ケアルが人々に認められたから、というわけではない。  その危うさを、おそらくケアル自身がいちばんよく知っている。  ゆっくりとケアルは立ちあがり、窓辺へと近づいた。前庭のむこうに、つきぬけるような青空と白くかすんだ水平線が見える。 (——エリ、おまえがいてくれたら……)  だが親友がいるはずの空も海も、ここからはあまりにも遠過ぎた。      2  葬儀の朝は低く雲がたれこめ、いつ雨が降りだしても不思議はない天候だった。  一般に領主など身分の高い者の葬儀には、他領のやはり身分の高い人々や重臣と呼ばれる家令たちが出席し、一般の領民たちが参列することはない。実際、先日おこなわれた長兄セシル・ライスの葬儀もその例にならった。  しかしケアルの希望でこの葬儀には、「上」に住む領民たちはもちろんのこと、島人たちまでもが参列を許された。参列をのぞんで公館へやってきた領民たちは、朝の時点で五百人を超え、ケアルはかれら全員に葬儀がおこなわれる前庭へ入ってもらいたいと希望したのだが、さすがにそれはかなえられなかった。  家令たちが走り回って領民たちを、葬儀がおこなわれる公館前庭から墓地へいたる道沿いに誘導し、ゆっくりと進む棺《ひつぎ》にかれらが最後の挨拶を送れるよう手配した。  詰めかける領民たちを目にして真っ先に抗議の声をあげたのは、やはりというべきか、フェデ領主だった。 「あの連中を、すみやかに始末しろ!」  詰め寄るフェデ領主を、いなすこともできないでいる家令たちに代わって、 「まあまあ、そう言いなさるな」  杖を片手に割って入ってきたのは、ギリ領主だった。 「領民たちとて、ご領主に最後の別れぐらいはしたいじゃろう。あれほどの領民が集まるということは、いかにロト・ライスどのが良き領主であったかを証明しておるようなものじゃ。わしも旅立ちのときには、ギリの領民たちに送られたいものですなぁ」 「私は絶対にいやですね。領民ども——それも島人どもなどに死出の旅立ちを送られるなど、想像しただけでぞっとします」 「心配せずとも、だいじょうぶじゃよ。おまえさんの葬儀などに参列したいとのぞむ領民が、そうそういるはずもないからのぅ」  息がぬけたような声で笑うギリ老を、フェデ領主は忌々《いまいま》しげににらみつける。  ギリ老のうしろでこのやりとりを聞いていたケアルは、あわてて笑いをかみころした。家令たちへ詰め寄るフェデ領主に気がついて、申し訳ないと頭をさげるつもりで出ていこうとしたところを、ギリ老に止められたのである。ケアルが頭をさげれば、リー・フェデがつけあがるだろう、と言われたのだ。 「まあ、よそさまの葬儀じゃ。フェデ領にはフェデ領の流儀があるように、ライス領にもライス領なりの流儀があるんじゃよ。自領でおのれの流儀を通したいとお考えなら、他領のそれも認めてやらんとな」  現領主たちの最高齢であるギリ老にそう言われては、フェデ領主もひきさがるしかなかった。  葬儀がおこなわれる前庭へ、肩をいからせ出ていくフェデ領主のうしろ姿を見ながら、ケアルはギリ老と肩をならべてゆっくりと歩いていく。 「今日はミリオどのは?」 「遺族の代表として、参列します」 「代表は、若領主がやるのではなかったのかね?」  実は家令たちからも、ケアルが遺族の代表をつとめるべきだと言われた。長兄セシル・ライスの葬儀のおりには、ケアルは遺族の列に加わることさえ次兄に許されなかったのだ。そのミリオに遺族の代表を譲る必要などない、というのが家令たちの言い分だった。 「いえ。父にとっては、ふたりとも同じ息子ですから。でしたら、歳も上である兄上が遺族の代表をつとめるべきでしょう」  ケアルの答えにギリ老は、ふむとうなずいただけだった。  葬儀の流れは、長兄であるセシルのときとほぼ同じだ。ただし今回ケアルは、ミリオのすぐ横にマリナと並んで立った。  参列者たちが次々と、棺の中に花を入れていく。泣き女など雇ってはいないのに、参列者たちの中からすすり泣きの声が、また時おりは、こらえきれずに泣き伏す女性の声がずっと聞こえていた。  花で埋まった棺の中の父は、まるで生きているかのようだ。けれどやつれたその頬が痛々しくて、涙がこぼれそうになる。  父に訊ねたいことは、まだまだ山ほどあった。なぜ父は、島人の母を愛妾《あいしょう》としたのか。なぜ父は、ケアル・ライス家の紋章が入った翼を譲ったのか。なぜ父は、ケアルをデルマリナへ行かせたのか。息子たちに何を残し、何をさせたかったのか。ライス領を、そしてハイランドをどこへ導こうとしていたのか。答えを得られぬまま、訊ねることすらできぬまま、父は逝ってしまった……。  涙をこらえて、どんより曇った空を見あげる。そういえば父が逝ったあの日、ケアルは空で伝説の鳥ゴランと出くわした。人には馴れぬはずのゴランが翼をならべ、その赤い目でケアルをじっと見つめたのだ。 (なにか言いたげな、ひどく不思議な目だった……)  そして空のはるか高いところを見あげて、行ってしまった。いま思うと、まるでゴランが父の魂を、翼でさえ行くことができない高みへと連れ去ってしまったような気がする。その場には居らぬ末の息子に別れを告げるために、父がゴランを遣わしたような。 「光が……」  ふいに参列者の中から、小さな声があがった。その声につられるように、人々が白い流し旗のむこうにある海を振り返る。  低くたれこめた雲の隙間から、海へ向けて幾筋もの光が射し込んでいた。水平線の近く、まるで天の果てはここであると人々に教えているかのように。  いつしかケアルは、奥歯をくいしばって泣いていた。こらえようもなく、涙があとからあとからこぼれ落ちる。マリナがそっと手をのばし、ケアルの涙を拭ってくれた。  棺の蓋が閉じられた。父の顔を瞼《まぶた》の裏に焼き付けようと、ケアルは目を閉じる。 「ケアルさま、釘を——」  家令に声をかけられ目を開いたケアルは、震える手で棺に釘を打ちつけた。遺族たちに心残りがないように、父はもう亡くなったのだと、もう二度と顔を見ることも声を聞くこともできぬのだと、それは確認するための作業だった。 「——出棺いたします」  宣じる声とともに、若い家令たちが棺を持ちあげる。棺を先頭にして、人々がゆっくりと歩きだした。  公館の敷地内を出ると、道沿いに延々とならぶ領民たちの姿が見えた。本来なら墓地までの道のりは、お茶を一杯飲みほすほどの時間もかからぬ距離だ。しかし今日は集まった領民たちのために、棺は町の周囲をぐるりと大きくまわって進んでいく。  沿道を埋める人々からも、すすり泣く声が聞こえた。通りすぎていく棺に向かって、女たちが左右から白い花を投げる。たちまち棺の進む道は、真っ白な絨毯を敷き詰めたようになった。  領民たちに送られて着いた墓地の、ほぼ中ほどが代々領主の眠る場所だ。深く掘られた穴に棺がおろされ、参列する女たちがまた白い花を投げ入れる。  土がかぶされていく棺をじっと見つめるケアルの手を、そばに立つマリナがぎゅっと握りしめた。 「父上…………!」  マリナの手を握りかえすケアルの上に、雨粒がぽたりと落ちた。  雨足はすぐに強くなった。地面に当たってはねかえる雨の飛沫《ひまつ》が、白く足もとを隠す。それはまるで墓地全体が、女たちが投げた花々に埋まっているようにも見えた。  のちに人々は、天が領主の死を悼んで泣いたのだと、そう噂しあったのだった。    * * *  その夜、ライス領民たちの家々の窓辺には小さな灯りが置かれた。沿道から投げられた白い花々と同じように、その灯りはおそらく領民たちの、亡き領主への弔意をあらわす行動なのだろう。 「確かにロト・ライスどのは立派な領主じゃったが、それだけではあるまいて」  公館の窓から点々と見える灯りをながめていたケアルに、いつの間にそばへ来たのかギリ領主が感慨深げに話しかけた。 「領民たちがこんなにロト・ライスどのの死を悼むのも、若領主——おまえさんの演出があったからじゃろう」 「おれはべつに、演出などしていません」  領民たちの心を汚されたような気がして、ケアルは強く否定した。 「いやいや、若領主にそんなつもりがなかったのは、わしも知っておる。しかし、もしこの葬儀が慣例にのっとって領民たちの参加も許さず、我々だけでやっていたとしたら——たぶん領民たちは、ロト・ライスどのが亡くなったことも忘れていたじゃろう」 「そんな……」 「人の心とは、そういうものじゃ。ゆっくりと進む棺を目にして、棺につき従って歩く若領主の悲しみにうちひしがれた姿を見て、すすり泣く女たちの声を聞いて、領民たちは心を揺り動かされた。ご領主さまは亡くなったのだと、心で知ったのじゃよ」  頭ではなく心でな、とギリ老は自分の胸に手を当てた。 「若領主のおかげで、今日の葬儀は誰にとっても忘れえぬ、すばらしいものとなった。わしでさえ——わしより若い者たちが逝ってしまうのを数えきれぬほど見送った、このわしでさえ、目頭が熱くなるほどにな」  そう言って廊下のむこうに視線を向けたギリ老は、おやおや、とつぶやいた。 「今日の葬儀のことなど、きれいさっぱり忘れたい御仁が、いらっしゃったようじゃ」 「かようなところで立ち話とは、これはどういった密談ですかな?」  嫌味な声に振り返れば、フェデ領主が廊下のむこうからゆっくりと近づいてくるところだった。 「仲間はずれにされたからといって、僻《ひが》むでないぞ、フェデ領主どの」 「私がいつ僻みましたか!」  何度ギリ老に手玉にとられても懲りないリー・フェデは、むっとした表情もあらわに言い返した。 「聞けばギリ領主どのは、ライス領の家令どもの前で、そこな若者こそ領主たるにふさわしい、ぜひとも彼をライス領主として立てるべきだとおっしゃられたそうですな?」 「はて、そうじゃったかな?」 「今さらおとぼけになっても、もう遅いですぞ。多くの者が聞いておるのですからな」  勝ち誇って言うフェデ領主に、ギリ老は目を細めて笑う。 「多くの者が聞いておるときの話ならば、わしはこのケアル・ライスが領主となるならば助力は惜しまぬ、と言うたんじゃ。聞いておった者が少なかったときの話じゃとしたら、ミリオ・ライスどのは領主にふさわしくない、と言うたな。どこから聞いた話かは知らぬが、残念ながらフェデ領主どのの情報源は、いまひとつ詰めが甘いのぅ」  余裕のギリ老の言葉に、フェデ領主は眉をつりあげ口髭を震わせた。 「お……同じことではないですか!」 「そうかね?」 「ミリオどのを領主にふさわしくないと否定されたということは、この者のほうが領主にふさわしいと言ったも同然だ!」  はて、とつぶやいてギリ老は、口を出すこともできずにいるケアルを振り返った。 「おまえさん、今のが同じ意味じゃととれるかね?」 「——いいえ。申し訳ありませんが、おれには同じ意味には聞こえませんが」 「そうじゃろう。わしにも同じ意味とは聞こえんかった。良かった良かった、歳のせいでわしの耳も悪くなったのかと思いかけたところじゃ。なにせこの歳じゃから、身体には気をつけぬといかんからの」 「いえ、ギリ領主どのはまだまだお若いですよ。体力もおありになるし」 「褒めてくれるとは、嬉しいのぅ」  呵々《かか》と笑うギリ老の声に重なって、乱暴に扉を閉める音が響いた。ケアルたちが立っているすぐ前の部屋へ、怒りに震えるフェデ領主が入っていった音だ。この部屋では、各領からの弔問客たちが夕食後の軽い一杯を楽しんでいるはずだった。 「おやおや、フェデ領主どのを怒らせてしまったようじゃな」 「中にいらっしゃる皆さんは、さぞ驚かれたでしょうね」  ケアルとギリ老は顔を見合わせた。 「そうじゃな。なにせあの、作法にうるさいフェデ領主どのが、扉をたたきつけて入っていったんじゃからな」  二十歳の若者と、八十を過ぎた老人は、そろって苦笑したのだった。      3  前領主の葬儀があってから三ヶ月後、喪があけたとされて、新領主の即位式がおこなわれる。  即位式といっても、中身は新領主の御披露目《おひろめ》のようなものだった。四人の領主たちが見守るなか、家令の代表が何人か、新しい領主に忠誠を誓うと記された誓約書に署名するのである。このとき四人の領主たちは、いわば「見届け役」であり、新しい領主がたとえ意に添わない者であったとしても、口出しすることはできない。過去に例はないが、もし新領主を認められぬと考えた場合は、領主たちからなる�五人会�にてとりあげることとされている。  この即位式をもってその者は新しく領主の座についたと正式に認められ、そのあとは各領から大勢の客を招いての宴がひらかれる。宴は長い場合で三日三晩続けられ、新領主は招かれた何百人の客全員にひとりずつ、挨拶をしていくのだ。  式そのものはごく簡単ではあるが、そこへ至る手順はずいぶんと格式張ったものがある。前領主の葬儀が終わるとすぐに、各領の領主へ招待状を出し、式の数日前に迎えの使者を送るのである。使者の人選、述べる口上の文案、それぞれに決まりがあった。もしそれらを失敗しようものなら、礼を欠いたと非難されることになる。 「できるなら、質素にやりたいのだけど」  ため息まじりにケアルがもらした言葉に、執務室にいた十人からの人間が一斉に振り返った。 「なんてことをおっしゃるんですか!」 「礼を欠いたと非難されるようなことにでもなれば、他領のご領主がたにこの先ずっと侮《あなど》られますぞ!」 「盛大にやらねば、これもまた侮られることになります!」 「いまのフェデ領主さまが即位なさったときなど、招待されたお客の数は千人を超え、宴《うたげ》ではその千人でもとても飲みきれない酒、食べきれるはずもない量の料理が出されたと聞きます」  ケアルは軽く目をみひらき、 「——で、その残った酒や料理は、宴のあとどうなったのかな?」  若領主のあまりに下世話な問いかけに、今度は全員ががっくり肩をおとした。 「ケアルさま、今はそのような話をしているのではありません」 「でも、気になるじゃないか。酒にしても料理にしても、タダじゃないんだから」 「それは若領主がお気になさることではありません」  違うよ、とケアルはかぶりをふる。 「お金は湧いて出てくるものじゃない。領民たちが賦役《ふえき》したり、領民たちから租税を徴収したりしてできたお金だ。領主がそんなお金の使い道に無頓着では、領民たちに申し訳ないと思う」 「それは……その通りですが……」 「それにもうじき、港の建設が始まる。鉱山の賦役に駆り出されていた人々を、そちらへまわさねばならないから——当然のことながら、しばらく収入が減ってしまうだろう」  やはり無駄づかいはできないよ、とケアルは手にした書類を、書きもの机の上へ投げだした。ゆっくり視線を向けた大卓の隅で、マリナとオジナ・サワが肩を震わせ、笑いをこらえている。 「——マリナ、きみはどう思う? デルマリナではどうだった?」  ケアルの問いかけにマリナは、そうねぇと頬に手を当てた。 「デルマリナ市民は、日頃はすごく節約家なのだけれど、お祭りなどのときにはぱあっとつかったわね。そういったときにつかわないと、節約家じゃなくて吝嗇《りんしょく》だって言われるの」  ほらごらんなさい、と家令たちがマリナの言葉にうなずいている。 「けれどね、身の丈にあったつかいかたをしないと、今度は莫迦だって言われたわ。わたくしのお父さまが、お母さまと結婚したとき——それはそれは質素な宴だったそうなの。それこそ、アルテに属していない一般市民と同じぐらい質素な宴だったのですって」  デルマリナのダイクン邸でひらかれたレセプションの豪華さを知っているケアルは、興味深げにマリナを見つめた。 「お招きしたお客さまの一部は、なんて吝嗇なんだとおっしゃったそうよ。でも残りのお客さまは、ピアズ・ダイクンは自分の身の丈を知っている、と褒めたのですって。そして吝嗇だと言った方々も、やがてお父さまが商売に成功してお金持ちになると、ピアズ・ダイクンは賢明だったのであって吝嗇だったのではないんだ、とおっしゃったそうだわ」  マリナが話し終えると、ケアルは執務室にいる家令たちを見回した。 「——ということで、おれは賢明だったピアズどのに倣《なら》いたいと思う」  家令たちは互いに顔を見合わせた。かれらの口もとに、仕方ないな、といった苦笑が浮かぶ。 「よろしいでしょう。どうせ難癖をつけてくるのは、フェデ領主さまぐらいなものでしょうから」 「そうですな。フェデ領主さまに吝嗇だと言われても、私はべつに気にしませんよ」 「ええ。そのかわり、即位式の手順や決まりごとは、確実に守りましょう」 「質素に、そして厳かにですな」  家令たちの同意を得て、招待する客を厳選し、宴もごく質素に、半日で終わる程度のものを用意することに決まった。    * * *  即位式の当日は、雲ひとつない晴天だった。  式がおこなわれる大広間は塵《ちり》ひとつ染みひとつないほど磨きあげられ、この日のためにと女たちが織りあげた、ライス家の紋章を浮き織りにした掛け物が広間のいちばん奥に掲げられた。花々や豪華な調度品といったものはなく、領主たちが座る椅子や家令たちが署名する机も、執務室や客間から持ち出してきた使い回し品である。だが、派手に飾りつけられていないぶん、かえって大広間は厳かな雰囲気をかもしだしていた。  ケアルの衣装は、その昔、ロト・ライスが即位式のときに着けたものである。樟脳《しょうのう》の匂いがぷんぷんした衣装を、女たちが幾晩も夜露にさらして匂いをぬき、変色してしまった銀の釦《ぼたん》を磨《みが》きあげたのだ。 (これは結婚式にも、使い回しがききそうだな……)  忙しく宴の手配をしているマリナには言えそうにないことを考え、ケアルはひとり苦笑した。 「ご衣装に、不自由なところはありませんか?」  衣装係の女性がそっと扉を開けて、顔をのぞかせた。ケアルはあわてて表情を引き締めると、大丈夫だよとうなずいてみせた。 「それよりも、みんな忙しそうだね。おれに何か手伝えることはないかな?」  ケアルが訊ねると、衣装係は驚いた顔をしてかぶりをふった。 「とんでもございません! 若領主さまにお手伝いいただくなんて……!」  わたしが叱られてしまいます、と肩をすぼめる。どうかお式まで、この部屋から出ないでお待ちくださいね、と何度も念をおして衣装係が立ち去ると、ケアルはそっと支度部屋を抜け出した。  百五十人にしぼった招待客たちのうち、他領からの客人は、昨日のうちには全員が到着し、式が始まるのを待ち構えているはずだ。家令たちは客たちの世話や、宴を野外でひらくと決めたために、天幕を張ったり卓をならべたりといった準備に追われている。  だれに見咎められることもなく家令たちが使う通用口の前を通りかかったケアルは、ふと足を止めた。言い争う声が聞こえたのだ。 「だめだ、だめだ! さっさとこの汚いものを持ち帰るんだ!」  草で編んだ籠を抱えた貧しい身なりの男が、怒鳴りつける家令に何度も頭をさげていた。 「お願いします。ケアルさまがおつきになる食卓の隅に、並べていただけるだけでいいんです」 「若領主が、こんな干物などお食べになると思うのか! さあ、さっさと帰れ!」  ケアルはそっと後ずさり、急いでその場から離れた。そして公館の入口ホールへ近づくと、そこで即位式の祝いにと、あれこれ品を届けに来た領民たちの対応をしているオジナ・サワを、柱の陰からそっと呼んだ。 「今日の主役がいったい、こんなところで何をしているんですか」  あきれはてた顔でやって来たオジナに、ごめんと謝りつつ、先ほど通用口で見たことを話した。 「ああ、なるほどねぇ」  聞き終えたオジナは、尖った顎を撫でながら眉をひそめた。 「どおりで、祝いの品を持ってくる領民たちの中にまったく島人がいないはずですね。こんな晴れがましい席に、みすぼらしい品など持ち込めないと思っているんでしょうね」 「みすぼらしいなんて……」  ケアルが咎めると、オジナは「ご覧なさい」とホールの隅に積み上げられた品々をしめした。 「織物に絨毯、手の込んだ彫刻や置物、珍しい果実だの銀食器だの——あれらに比べればみすぼらしい品といえるでしょう?」 「けれどおれは、品々が嬉しいのではなくて、わざわざ祝いにと届けてくれる気持ちのほうがずっと嬉しいんだ」 「でしょうね。あなたがそういうひとだからこそ、せめて通用口からそっと届けようと、島人たちがやって来るんでしょう」 「——どうにかできないかな? せめて追い返さずに、受け取ってやりたいんだけれど」  あの場で家令に、なぜ受け取らないのだと叱りつけることはできた。だがそうすれば、家令は島人の前で恥をかかされたと思うことだろう。それでもまだ、恥をかかせたケアルを恨むならいいが、家令はおそらく目の前の島人を逆恨みするに違いない。  ケアルがどれほど上の領民たちと島人たちを区別することなく対等に扱っても、長年にわたって培われた人々の価値観はそう急に変えられるものではない。逆にそんなケアルを見て、なぜ島人どもなどに肩入れするのかと不満をもらす者までいるという。 「仕方ありませんねぇ……」  しばらく考え込んだオジナは、わかりましたとうなずいた。 「なんとかしましょう。そのかわり、明日からあなたの食事には必ず、干し魚が山ほど出されることになるかもしれませんがね」 「心して食べさせてもらうよ」  あわただしく準備を始めたオジナにあとを任せて、ケアルは支度部屋に戻った。  即位式を直前にして、前途のあまりの多難さにケアルは、これは自分の理想が高すぎるだけなのか、それとも自分の力不足が予想以上なのかと、考え込まずにはいられなかった。  家令たちを含めて、二百名からの人々がずらりと並ぶ大広間の壇上に、ケアルは万感の思いをこめて足を乗せた。  同時に家令たちの間から、やや遅れて招待客たちの間から、大きな拍手がおこる。打ち鳴らされる音は大広間の窓硝子を震わせ、壁や天井に反響した。  こちらへ、と進行役の家令に促され、ケアルは壇上の椅子に腰をおろす。ケアルの右側には、いまだ領主の決まらぬマティン領主をのぞいた三人の領主たちが威厳ある表情をして座っている。左側には代表の家令たちが五人、こちらは緊張の面もちを隠そうともせず座っていた。そして前へ視線をやれば、客人たちの最前列に、海のように青いドレスを身にまとったマリナが、どこか心配そうな顔をしてケアルを見つめていた。  人々の拍手がしずまったところで、盛装した家令が誓約書を手に壇上へあがった。まずは領主たちに一礼し、そして正面を客人たちのほうへ向けると、誓約書を広げた。  咳《しわぶ》きひとつ聞こえぬ静寂の中、張りのある声が誓約書を読みあげる。 「——ひとつ、我らはロト・ライスが息子、ケアル・ライスを我らが領主と認める」  一文を読みあげるたびに、家令たちが真剣な表情でうなずくのが見えた。 「ひとつ、我らは新しいライス領主に忠誠を誓い、領主とライス領のために我が身を賭《と》することを誓約する」  すべてを読み終えると、壇上に据えられた机に誓約書が乗せられた。  左端に座った家令が進み出て、ペンを手に取る。緊張のために震える手で、しかし丁寧に、彼は誓約書に署名した。彼が席にもどると、ふたり目の家令が立ちあがる。 [#挿絵(img/KazenoKEARU_04_221.jpg)入る]  全員が署名を終えると、先ほど誓約書の内容を読みあげた家令が、ふたたび誓約書を手に壇の中央に進み出た。今度は署名を行なった家令たちの名が、順に読みあげられる。 「——ここに我がライス領は、新しき領主を擁したことを宣言する!」  宣する声とともに、ふたたび大広間に万雷の拍手が鳴り響いた。  署名を終えた家令たちが立ちあがり、拍手の波に加わる。見届け役の領主たち三人も、椅子から立ちあがった。最後に人々の拍手に応えるべくケアルが立ちあがったとき、ふいに、鳴り響く拍手にざわめきが混じった。  人々の視線が領主たちのほうへ向けられているのに気づいて、ケアルはなにげなくそちらを振り返った。  ただひとり、フェデ領主リー・フェデのみが椅子に座ったまま腕を組み、憮然とした表情で宙を睨みつけていた。あわてて進行役の家令がフェデ領主のもとへ駆け寄り、うしろからそっと耳打ちした。だがリー・フェデは憮然とした表情のまま、ゆっくりとかぶりをふったのである。  立ちあがる気配すらないフェデ領主に、人々のざわめきが大きくなった。互いに顔を見合わせ、囁きを交わす。大広間のうしろのほうからは壇上を見ることができず、後方の客人たちの中にはその場で爪先立ち、あるいはぴょんぴょんと飛びあがる者さえいた。  誓約書を手にした家令が、不安そうな顔でケアルを振り返った。ケアルは笑みを浮かべて、家令に小さくうなずいてみせる。そしてゆっくり前へ進み出ると、本日の青空のような笑顔をみせて大広間を見回し、不作法を承知で人々に向かって手を振った。  ざわめきが小さくなり、拍手の音がより大きくなったのをみはからって、ケアルは踵《きびす》をかえし悠々と領主たちのもとへ近づいた。まずは最長老のギリ領主の前に立ち、握手をもとめる。ギリ老はケアルの意図を悟ったのか、にやりと笑って彼が差し出した手を握り、もう片方の手を人々に向かって振った。 「おお……っ!」  どよめきが歓声に変わり、割れんばかりの拍手が大広間を包んだ。中でも家令たちは、いまにも泣きだしそうな顔をして、たとえ腕が折れても構わないとばかりに手を打ち鳴らしている。  続いてケアルは、ウルバ領主に握手をもとめた。家令たちに鬨の声をあげさせたり、歓声をもって迎えられたりといったことを好むこの単純な領主は、ギリ領主に続けとばかりにケアルの握手に応じ、人々に向かって大きく腕をふりまわしてみせた。  そして、フェデ領主である。ケアルが前に立ち、憮然として顔を背けようとしたリー・フェデの腕を強引に掴み引き寄せると、無理やり握手へ持ち込んだ。そして、腕を引っぱられて腰を浮かしたフェデ領主の椅子を、爪先をのばして横へずらした。このまま座ろうとすれば、床に尻餅《しりもち》をつくことになる。二百名からの注目が集まる中で、体面を重んじるフェデ領主が、尻餅をつくようなまねをするはずがない。あんのじょう、渋々ながらもリー・フェデは立ちあがった。  ふたたびケアルは壇の中央にもどり、人々の歓声と拍手に、ゆっくり手を振って応えた。  かくして——ここに新たなライス領主が誕生したのである。    * * *  即位式を終えた客人たちは、祝宴がひらかれる公館の前庭へ案内された。  新領主の即位を祝う宴としては、酒や料理の品数も少なく、給仕する人数もまばらな質素なものではある。だが、これまでハイランドでは屋外に宴席を設けた例はなく、その目新しさに客人たちは喜んだ。おそらく大多数の客人は、宴の内容が質素なことに気づくこともなかったに違いない。  これはマリナの発案だった。 「ほら、園遊会だったら日が落ちれば、おひらきにすることができるでしょう? それにお天気がいい日に、外で食事したりお茶を飲んだりって、楽しいものよ」  家令たちもこれには大賛成で、ぜひお客人たちのど肝をぬかしてやりましょう、と子供のように喜んだ。 (どうやら、その通りだったみたいだな)  誓約書に署名した五人の家令たちとともに、招待客らへの挨拶にまわりながら、ケアルは心の内で満足してうなずいた。 「さっきの式は、なまじの芝居を見物するよりおもしろかったぞ」  大勢の人々に囲まれていたギリ領主にようやく挨拶できたとき、老人はそう言って、息がぬけたような声で笑った。 「ギリ領主どのが、私の芝居に乗ってくださったおかげです」 「なんの、なんの」  ギリ老は首をふり、ところで、と少し声をひそめた。 「そのフェデ領主どのの姿が見当たらんのじゃが、どこへ行かれたのかな?」 「えっ、いらっしゃいませんか?」  そばを通りかかった家令に訊ねたが、お見かけしておりませんが、と申し訳なさげな返事だった。それでも、即位式があった大広間からこの宴席へ招待客たちを案内した家令なら、きっとわかるに違いないと訊ねてみたが、こちらも首を傾げるばかりだった。  そうしているところへ、マリナが公館の中からドレスの裾をつまんで、きょろきょろと周囲を見回しながら走り出てきた。こっちだよと手を振ってやると、まっすぐケアルへ向かって駆けてきた。 「たいへんよ……!」  ケアルの腕をつかんでマリナはそう言うと、息をととのえ声をひそめて、 「お義兄さまが、公館を出ていかれたの」  軽く目をみひらき、ケアルはギリ老と顔を見合わせた。 「それはやはり、弟が新領主ですと挨拶するところを見ていたくなかったんじゃろう」  やれやれといった様子で、ギリ老は言ったが、マリナは「違いますわ」ときっぱりかぶりをふった。 「おひとりで抜け出されたなら、わたくしだってそう思いますわ。でも、違うんです。お義兄さまは、フェデ領主さまとご一緒に、公館を出ていかれたのですわ」 「なんだって……?」  ケアルは大きく目をみひらいた。  この即位式のあとで、ミリオ・ライスの廃嫡が決定する手はずとなっていた。分家すじへ養子として迎えられ、ライスの姓を名乗れなくなるのである。だがまだ、次兄はライスの姓を持っている。ミリオ・ライスという名を持つ限り、次兄はライス領主の座を継げる可能性があるのだ。 「おそらくフェデ領主どのは、�五人会�でミリオどのこそライス領主の正当なる後継者だと、主張するつもりじゃな」  ギリ老の言葉に、ケアルはうなずいた。やられてしまった、というのが正直なところだ。まさかそんなまねはするまいと思っていたあたり、自分は次兄を侮っていたのだろうか、とケアルは唇をかみしめた。  そんなケアルに、今度は別のところから声がかかった。 「若領主さま、伝令です!」  家令がこれもまた公館から走り出てきて、ケアルの前に立つ。 「伝令……? どこからだ?」 「マティン領の伝令です。祝宴の最中なのでしばらく待てと言いましたが、どうしても早急にお目通り願いたいと」 「——わかった。すぐ行く」  うなずいたケアルは、中座を失礼しますとギリ老に頭をさげた。  不安そうなマリナと難しい顔をしたギリ老をその場に残し、急いで前庭を横切り、公館へ入っていく。にぎやかな屋外とはうって変わって、公館内は先ほどの沸きに沸いた即位式が嘘のように、静まり返っていた。家令たちもほぼ全員が宴席に出ており、廊下には動く人影もない。  マティン領から伝令とは、いったいなにごとだろうか。ライス領は今日が即位式であると知っているはずだ。知っていて伝令を寄越すとは、よほどのことがあるに違いない。  ケアルが執務室に入ると、待ちかねたように伝令が立ちあがった。 「本日は、おめでとうございます。我が領のご子息から、出席がかなわずたいへん申し訳なかった、と言付かっております」 「ありがとう。ご子息のおかげんは、少しは良くなったのかい?」 「はい。ようやく今朝は、寝台の上に起きあがれる程度に回復いたしました」 「そうか、それはよかった」  うなずいたケアルは伝令に椅子をすすめたが、男は生真面目な顔で「このままで結構です」と首をふった。 「——それで、用件を聞こうか?」  ケアルが促すと、伝令は緊張した様子で姿勢をただした。 「今朝、マティン領の南東海域に、デルマリナの船が姿をあらわしました。その数、十二隻」 「十二隻だって……?」  愕然としてケアルは目をみひらく。これまで十二隻もの船が、いちどきに来航したことなどない。 「マティン領より使者を出そうと考えましたが、その、実は——」  伝令は言いにくそうに言葉を濁した。 「十二隻もの船団ですので、我が領には使者となるべき人材が……」  なるほど、とケアルは気がついた。わずか一、二隻の船さえ怖れるハイランドの人々が、十二隻もの船団に使者として赴けと命じるのは酷というものだ。それにマティン領には現在、家令にそれを命じられる、そして命じられた家令がそれに従わざるをえない領主がいない。 「——わかった」  不安げな伝令に、ケアルは笑顔をつくってうなずいてやる。 「デルマリナ船団への使者は、この私が赴こう。なに、翼で行けば今日中には着く」 「ご……ご領主みずから、ですか?」  ぽかんと口を聞いて驚く伝令に、ケアルはふたたび、にっこり笑った。 「そうだよ。たぶんこのハイランドで、私がいちばん使者として適任だからね」  この日を境にしてケアルは、時代の流れをただ見ている側ではなく、より激しい流れをつくる側へと立場を変えたのである。  だがこのときはそんな自覚もなく、彼は飛行服へと着替えるために、若かりし父が身につけた上着を、名残惜しむことなく脱いだのだった。 [#改丁]    あとがき  お読みいただき、ありがとうございます。  ひょっとすると本屋の店先で、あれ? これって先月刊行予定じゃなかったっけ? などと首を傾げているかたがいらっしゃるかもしれません。ですが、それはきっと気のせいです。あなたは決して、三巻の帯にあった「十一月刊行予定」のところに、三浦の名前と『風のケアル 4』なんて文字を見てはいません。絶対に絶対に見ていません。ほんとに見てないんだから。お願いですから……見てないって言ってください。  懇願しつつ、四巻をお届けいたします。  今回は、ネーミングの話などしてみましょう。  同業者の友人に訊ねると、とっても素敵な登場人物の名前やいかにもそれっぽい国の名のつけかたが、実はあまりに安易だったりして、がっくり肩から力がぬけてしまうことがあります。好きなアーティストの本名を使いました〜、なんて可愛いものです。いつぞやは「名前は何にしようか思ったときに、目の前に正露丸と三共胃腸薬があったから、そこからとりました〜」なんて教えられたときには、魂が口から抜け出ていくような感覚をおぼえました。なぜに、よりにもよって正露丸と胃腸薬なんでしょうか。他にも色々あったでしょうに——いやそれよりも、仕事してる机の上に正露丸と胃腸薬が乗ってるなんて、もの書きってなんて不健康な商売なんでしょうと嘆くべきか……。  とはいえ私の名前のつけかたも、他人のことをあれこれ言える立場ではないかもしれません。でも、読んでくださったかたの口から魂が抜け出ていくと申し訳ないので、なるほどなぁと思っていただけそうな例をあげてみることにします。  まずは主人公、ケアル・ライス。一部のかた、特にゲーマーな読者さまにはすでに指摘されていますが、この「ケアル」は某有名RPGシリーズの、回復魔法だったりします。それも、いちばん弱いやつ。経験を積みレベルをあげれば、やがて「ケアルラ」を。そして「ケアルガ」を使えるようになります。ケアル・ライスくんもきっと五巻目には、ケアルガ・ライスになっていることでしょう(信用しないように)。ちなみにファミリー・ネームの「ライス」は、決してお米を意味する英語ではありません。アラブのほうの言葉で「首領」を意味するのだとか。  もうひとつ、デルマリナという国名。これはアメリカはロスアンジェルス近郊にある、マリナ・デル・レイというヨットハーバーからとりました。これはスペイン語で、意味は「王様の海」。六千隻ともいわれるヨットが停泊していて、なんだかその豪華さがとてもデルマリナっぽいです。  そういえば名前で思い出しましたが、ピアズ・ダイクンはどうやら二つの人格をもつ男らしいです。策略をめぐらしているときはピアズ・ダイクンですが、愛娘のマリナを思って、思いすぎて壊れてしまったときは「マリナ・パパ」。パソコン通信で「マリナパパが壊れちゃってる〜」とあるのを見たときは、もう大爆笑しました。マリナパパ……なんて素晴しいネーミングなんでしょう。それ以来、私も担当さんも、彼のことはマリナパパと呼ぶようになってしまいました。  次はいよいよ、最終巻です。  目玉としてはやはり、デルマリナとハイランドが最終的にどんな関係になるかですね。それはつまり、登場人物たちがどんなふうに絡みあうか、ということでもあります。  さて。ケアルはエリと再会できるのか、マリナパパに認めてもらえるのか。マリナパパは娘を取り戻すことができるのか。なんにしろ、読んだかたが「まさか、こう来るとは!」と驚くようなラストを用意しています。お楽しみに。  それでは、次は三月、五巻でお会いしましょう。 [#地付き]三浦 真奈美 [#改ページ] 底本:「風のケアル4 朝遠き闇」C★NOVELS、中央公論社    1998(平成10)年12月15日初版印刷    1998(平成10)年12月25日初版発行 入力: 校正: 2008年4月3日作成